『自転車泥棒』呉明益

 

自転車泥棒

自転車泥棒

 

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台湾では、自転車といえば、脚踏車、鐵馬、孔明車、単車、自行車など、さまざまな呼び方があるそうだ。でも、とりわけて、鐵馬という言葉の美しさはどうだろう……
語り手「ぼく」こと程の父が失踪したとき、父の鐵馬も消えた。
大人になった程は、父の足跡を追うが、それは父の鐵馬を探すことでもあった。


自転車(父)を探す物語は同時に、程の出逢うたくさんの者たちの物語でもある。
人々、その親や恋人、友人たち。どの人々の物語も、愛おしい。
植物、とりわけ樹木の物語。
動物、サル、オランウータンの物語。
それからゾウ。
日本の植民地だった台湾で、(日本の兵隊として)招集された台湾の人々と、戦争に巻き込まれたゾウたちの悲しみ、苦しみは似ているような気がする。
果てない地獄に変えられてしまった密林や、動物園で、人とゾウが、声ではない言葉で心通わす場面が、ずっと心に残っている。


古い自転車は、人の手から手へと渡る途上で、無くした部品・壊れた部品が修理されて、間に合わせに取り付けられた雑多な部品の寄せ集めになっていることが多いようだ。
自転車マニアたちは、インターネットなどで連絡をとりあいながら、自分の自転車のために、バネやネジ一本に至るまで、その時代、そのブランドの、その車種特有の部品を、長い時間をかけて探し出そうとするそうだ。
その自転車のあるべき姿を丁寧にゆっくりと取り戻そうとしている。
彼らは、そうすることを、「リペア」ではなく、「レスキューする」という。


一台の自転車には、きっとその自転車だけが持つ物語がある。
自転車をレスキューすることは、その記憶、物語もレスキューすることでもあるように思う。
さらには、レスキューしようとする本人をレスキューしているのかもしれない。


ゾウの遺体を、剥製にする場面があった。
その工程を読んでいると、むごいことをしているような気がしたが、実際目のあたりにすると、そこで処理されているのは「死」ではなく「生」なのだ、と実感するそうだ。
最後の仕事を終えたとき、剥製師は「自分たちの神殿」のなかにいるように感じたそうだ。
古い自転車のレスキューに込めた思いが、剥製師たちの思いと重なる。
死から生へ。神殿へ。
その自転車に直接、間接的に接してきた人たちの人生を再構築していくようでもあり、幾人もの消えてしまった人々を、一人一人呼び戻しているようにも思える。
呼び戻しながら、その人とかかわってきた記憶の片鱗を思い出している。それから、そばにいた時には知りえなかったその人の色々な思いに気付き、さらに、周辺の人びと、とりわけ家族たちの思いにも気づく。


語り手である程は、中華商場(『歩道橋の魔術師』を思い出す)で育った。
いまは消えてしまった商場の、少しいかがわしい賑わいが懐かしいような光景になって、物語のあちこちに顔を出す。


目次にも載らないささやかなプロローグの、透明なまでのしんとした美しい光景のなかを自転車で行く少女は誰なのか。静かな光景であるのに、空の縁にある不穏な黒い影はいったい何なのか。
ここで見た、この透明感と不穏さとをはらんだ静かな美しい文章は、長い物語をずっと影で支えているようだった。


程の父は、仕立て屋だった。手間をかけることを惜しまない人だった。
「お前は、手間を学ばなかったからな」といつか父は言ったが、今の程は、父に似ていないだろうか。