『ジョヴァンニの部屋』ジェームズ・ボールドウィン

 

ジョヴァンニの部屋 (白水Uブックス (57))

ジョヴァンニの部屋 (白水Uブックス (57))

 

 

知人たちには、あの若いアメリカ人、と呼ばれるディヴィッドが語り手になり、ジョヴァンニとの思い出を語る。
ディヴィッドとジョヴァンニが出会ったのはパリのゲイバーで、二人は客とバーテンだった。互いにすぐに惹かれるようになり、ジョヴァンニの部屋で一緒に生活するようになる。


差別と偏見の下、彼らのパリは、華やかな都会というより、隠微で薄暗い街角なのだ。
肩を寄せ合って、遊歩道を歩く二人は幸せそうだった。


でも……
ディヴィッドの語りは、最初から、後悔と懺悔に満ちている。
もうすぐジョヴァンニは「断頭台の露と消える羽目」になっているのだという。
いったい何があったのだろう……
デイヴィッドとジョヴァンニの共通の知人(?)ジャックは、言ったものだ。
「だれだって、エデンの園に、いつまでもとどまっていることはできない」


さきほど、ディヴィッドの語りは、後悔と懺悔に満ちている、と書いたけれど、彼の懺悔の言葉の、このうえなく苦い言葉の中に、なにか甘美なものが混ざっているのを感じないだろうか。
この男は、だれかの言葉を借りていうならば、
「だれも愛してはいな」かったのだ。「いままでに、だれを愛したこともないし、今後も愛することはないだろう」
「自分の鏡を愛している」だけなのだ。
そうなのだろうか。
いいや、そうじゃない……


ディヴィッドは、ジョヴァンニとの関係を「罪深いもの」と考えて、彼なりに苦しんでいたのではなかったか。
当時(1950年頃)自分の国では、こうしたことは「犯罪」である、とディヴィッドは言っている。
彼は--ジョヴァンニをやはり愛していたのだと思う。
罪深いことだと思いながら。
許されないと思いながら。
世間の目にがんじがらめの彼は、意に反してのめり込んでいくことに、苦しんでいた……
そこは、彼にとって「エデンの園」ではなかったのだ。


ディヴィッドは臆病で卑怯だった。
(世間から)許されない道を歩む自分自身を侮蔑するかわりに、ジョヴァンニを蔑んだのではないだろうか。
後のジョヴァンニに対するディヴィッドの冷淡な態度は、もしかしたら、自分自身(の身代わりであるジョヴァンニ)への侮蔑ではなかったか。
(デイヴィッドの12歳のときのジョーイとの思い出は、いまの彼のジョヴァンニへの態度の、まるで、ひな形だ。)
そして、ジョヴァンニはといえば、ディヴィッドの分までの絶望(ディヴィッドは絶望することさえできなかったから)をひとりで引き受けて、死んでいく。


デイヴィッドは不快な人間だけれど、嫌悪感とともに、読後、いたたまれないような恥ずかしさが残るのは、わたしのなかにも彼がいることを否応なしに感じてしまうからだ。