『十一歳の誕生日』ポーラ・フォックス

 

十一歳の誕生日 (心の児童文学館シリーズ)

十一歳の誕生日 (心の児童文学館シリーズ)

 

 

ネッドは十一歳の誕生日のお祝いに、叔父から、空気銃(たまがはいって撃つばかりになっていた)を贈られる。
けれども、喜びでいっぱいのネッドを前にして、パパは、今のネッドに銃は相応しくない、時機がくるまでしまっておく、という。
ネッドは、一旦納得したものの銃をあきらめきれない。
ある晩、「これ一回限り」と、こっそり銃を持ちだし、外に出る。暗闇の影に向かって、夢中で引き金を引く。瞬間、銃口の先の影が動いたような気がした。
その時から、銃は、ネッドにとって、見るのも嫌なものになる。父にも母にも、誰にも言えない秘密が、次から次へと嘘を生み、身動きできなくなっていく。
そして、ある日、ネッドは出くわすのだ。けがをして片目をなくした猫に。

銃を撃つ、ということが、(無垢でいられた)子ども時代との決別の儀式のようになってしまう。
その後のネッドの苦しみは、ヘッセ『デミアン』の明暗二つの世界を思い出させる。
ネッドの、屈託なかった以前の日々と、何もかもがひっくり返った十一歳の誕生日すぎの日々と。
片目の猫と出会い、この猫の事を(家族には内緒で)気に掛け、食べ物を運び続けることは、まがりなりの贖罪だった。

ネッドの母は少女のように朗らかでこの家の太陽のような人だ。
けれども、母は、重い病気だ。
それもあって、ネッドが友だちを家に連れてくることはない。
いきおい、ネッドのまわりにいる人物は、大人たち中心である。

お父さんは、牧師で、大きな善意の塊のような人である。息子のことを信頼しているし、なにかを諭すときにも決して大声を出すことはない。
けれども、その父の大きさが、息子はときどき負担になる。
「ネッドはパパをいつも信じているわけではないのに、パパのほうはネッドを疑ったことはない。それは考えれば、苦しいことだった。うまく説明できないけど、不誠実だという気がした」

それから、お天気屋でいばりん坊の家政婦のミセス・スカラップに対しては、
「ネッドは、つくづく、他人にたいするいちばんひどいしうちは、なにを怒っているかその人にいわないことだ、とさとった」

身近な人たちの(自分自身さえ気がついていない)狭さを、ネッドは、こんなふうに、敏感に感じとっている。

ネッドは、放課後、近所に住む一人暮らしの老人スカリーさんの身の回りのことをして、少しばかりのお駄賃をもらっている。
スカリーさんは、自分の死期が近いのを察していて、少しずつ身辺整理をしているが、その都度、ネッドに思い出話を聞かせることを楽しみにもしていた。
スカリーさんは寂しいのだ。不安なのだ。ネッドにもわかっているのだが、若いネッドには正直、スカリーさんの孤独は重すぎた。
けれども、片目の猫の登場が、スカリーさんとネッドの関係を変える。
二人にとって、この猫を生かすことが(そして猫に生かされることが)それぞれの事情で、大切な共通の目的になっていく。
スカリーさんとネッドの気持ちが徐々に通い合っていくさまが好きだ。
二人が、雪のさなか、動かない猫をひたすらに見守り続けるところはことに心に残った。

最後に、ネッドの目の前に広がる光景。
彼が小さいときから眺めていたおなじみの光景を、わたしも、彼と一緒に眺める。陰影を増して目の前に広がる光景を、美しいと思う。