『ネザーランド』 ジョセフ・オニール

ネザーランド

ネザーランド


チャック・ラムキッスーンが殺害された。
チャックは、ハンスがニューヨークで暮らしていた頃に出会った友人だったのだ。


同時多発テロ後の二年間を過ごしたニューヨークを、ハンスは回想する。
妻レイチェルが幼い息子ジェイクを連れて出ていった。
物騒な町で、心許せる友もなく、明るい展望は何もなかった。
ハンスは、ニューヨークのホテルで一人暮らし続けるが、
仮暮らし故、そこに生活感はちっともなくて、足元が心もとない印象。不安をかきたてる。


妻がハンスに語る言葉は理路整然としていて、その一言一言だけを取り上げれば共感できることばかりなのだけれど、
これが、ハンスという夫に向けられたとき、彼女のほんとうの気持ちが急に霞んでしまう。
彼女の言葉は、それも本心であるにもかかわらず、今このとき、「言葉」は、夫に対する本心を隠す盾の役割をしている。
彼女の気持ちの中に夫を立ち入らせないための盾。そして、彼女の気持ちが夫と通い合うことを拒絶するための盾。


孤独なハンスは、胡散臭いチャックに惹かれていく。
チャックがハンスを利用しようとしているのを、ハンスは敏感に感じとっている。
それなのに、チャックの中には、不思議な誠実さのようなものがある。そこに惹かれずにいられないのだ。
それは、多弁に語られる言葉とはかけ離れた感覚。
妻の言葉と同様、チャックの言葉も意味がないのだ。


言葉をここまで無残に意味ないものにしてしまえることに、愕然とする。
そして、意味ない言葉たちの向こうにある「意味あるもの」が見えないことに(見せてもらえないことに)苛立つ。


ハンスのまわりには移民たちがいる。
これだから差別なのだ、偏見なのだ、と線引きが明瞭でないところに滞るもやもやが、空虚さ、諦めという言葉と結び結ばれ、音もなく降り、積もっていく様子を連想させる。
テロよりも、ずっとずっと前から少しずつ積もり、気が付いたときには、まちじゅうにあふれ始めていたのだ、という感じ。
そうした空気のなかで、人は多弁になり、ますます言葉は虚しくなる。
やがて、当たり前に物を考えることができなくなっていくような、
動作も緩慢になり、簡単な身の処し方さえも分からなくなっていくような…


そういうニューヨークの片隅で、ハンスがよりかかるもの。
ウェディングドレスを着た「天使」と野球帽をかぶった未亡人との夜ごとの語らいは、頭のイカレタ三姉妹のよう。
外国で一瞬、袖振り合った女との思いがけない再会。
雑多な民族の集まりであるクリケットのチームメイトの寡黙さ。
幻想的でけだるいような風景が、ものいわぬ画像が、言葉より確かなものに思えてくる。


「・・・それでおしまいだ。この話はな。あるいは始まりかな」
物語は常に終わる。そして、常に始まるのだ。