『悲しみを聴く石』 アティーク・ラヒーミー

悲しみを聴く石 (EXLIBRIS)

悲しみを聴く石 (EXLIBRIS)


まるで一幕一場の演劇を見ているようだ。
舞台は、極めてシンプルな一つの部屋。
二つの窓には厚いカーテンが引かれている。奥の納戸へ続くドアもカーテンで隠されている。
壁にかけられているのは男の肖像画と三日月刀。
床のマットレスには、意識不明の男(肖像画の男)が点滴に繋がれて眠って居る。
それが舞台装置。
「悲しみを聴く石」の石は、この男。こんこんと眠り続ける男は、どんな言葉、音を聴いても石のように動かない。
外では爆撃や銃撃の音がする。最初は聞こえていた人の声も、やがて聞こえなくなる。この家も徐々に壊れていく気配。
この男の妻が、男の意識が戻ることを祈り、数珠を辿りながらコーランを唱えている。ほとんど彼女の独り舞台。
彼女は、「石」に向かって語り続ける。
祈りがほとんど呪いのよう。苦しみ、悲しみ、怨み・・・それ等を言葉にするとそのまま彼女の人生になるようだ。
少しずつ小出しに、外から内へ、表面から内面へ、どこまでも続く悲しみと怨みの告白が、一つの暗いおとぎ話のようだ。
まるで石を穿つ水滴のようでもある。


場面はずっと変わらない。
私は読んでいるうちに、この部屋に閉じ込められているような気がしてくる。
閉じ込められ、女の言葉を聞いているうちに、どんどん閉じ込められ、息苦しくなっていくような心地がして、突然叫びたい衝動に駆られる。


この衝動は、女の人生に重なるのだ。
なんという人生だろう。なんと閉じ込められた人生、手も足ももぎとられたような人生。それでもそれを受け入れなければ生きていくことさえできない。
受け入れたとしても、ほんのわずかに事情が変われば(女に落ち度があるなし関係なく)屑のように捨てられ、もはや生きる場所さえ与えられない。女が一人では決して生きていくことができない環境。
そうしたなかで、ただひとつ自由なのが「考える」ことか。
女は考えるのだ。生き延びるためにできることを。そして、女は考えるのだ。思いきり自分を苦しめるものたちを(決して目に見えない方法で)蔑む方法を。


物語の舞台である狭い部屋は、この女の生まれ育った社会そのものであり、女の人生そのものである。
読者のわたしは叫びわめくことができる。「外へ出してくれ」と。
けれども、女は外に出ることはできないのだ。外へ出ることは死なのだから。
そちらのほうへ手を出しかけて、とめる。抱きしめたいなんて、そんなたいそうなことは最初から望まない。でも、その手は、熱すぎて触れない・・・


「風が立ち、女の身体の上を、渡り鳥が飛ぶ。」
ラストの一文。
せめて、今。鳥よ、思いきり羽ばたけ。広く深い大空へ高く高く飛んで行け。