『いちべついらい ―田村和子さんのこと』 橋口幸子

いちべついらい 田村和子さんのこと

いちべついらい 田村和子さんのこと


田村和子さんは、詩人・田村隆一の夫人であった。

>和子さんは、ふつうの常識でははかれない部分があったことは事実だけれども、けっして、すれっからしとは違っていた。
(中略)
東京の下町言葉とでもいうか、女性にしてははっきりしすぎているところがあった。
言葉もそうだったが、行動もみかけによらず男っぽいところがあった。
和子さんはもっともっと根のからりとしたかわいい女だった。
ねじめ正一荒地の恋』に描かれた田村和子が「ちょっと違う和子さんに思えた」と言いつつ、語ったくだりである。
うんうん、それはわかるよ、わかるよ、と頷きつつ、来し方(今まで読んだページ)を振り返っている。
著者と和子さんの出会いは、著者夫婦が田村家の二階の間借り人になった時。
ただの間借り人ではなかった。やがて、これ以上に近い人間はいないのではないか、と思うような間柄になっていく。
くっついたり離れたり(でも精神的には、きっと、ずっとくっついたまま)、つきあいは、和子さんが亡くなるまで続いた。
著者は、和子さんの姉であり、妹であり、しっかりものの娘でもあるように見えた。しかし、著者は、彼女との付き合いのうちに、自分もまた病んでいくのだ・・・


とても強烈な個性を放つように思える田村和子という人。
ちゃっかりしているなあ、調子いいなあ、と思いつつ、つい何でもやってあげたくなってしまうような人。
しっかり者に見えるのに、あちこち抜けている。そして、ほら、とても上手に頼られると、なんとかしてやりたくなる。私がいなければ、あの人、だめなんじゃないか、と思ってしまう。
そして、いっしょにいると、いつのまにか、こちらの養分(?)が全部吸い取られてしまうようにつかれてしまう人。(ほんとうに気がつかないうちに)
そういう人って、いるよね・・・
そう書きながら、いいや、たぶん、違う、少し違う、と思う。
お互いにお互いを頼り、お互いを少しずつ浸食してもいるのに、お互いの一番美しいところを大切に享受しあっているような、どこまでも身を削られても、それ以上の歓びを得られるような関係、だったのではないか。
読んでいると、お互いによい時よりも悪い時、苦しい時のほうが多かったのではないか、と思えるのに、そして、大人の女同士の友情であるはずなのに、まるで二人の純な少女がそこにいるように感じる時もある。
こういう付き合い方ができる間柄が、ちょっと羨ましいような気がする。たとえば、石井桃子の『幻の朱い実』(感想)の二人にも感じたような、そういう羨ましさ。
(『幻の朱い実』の最後のほうで、主人公明子の娘が言った言葉「ママ、いい友だちをなくしたママの気持、わかるつもりよ。あたしたちには、もうそういう友だちはつくれない・・・・・・」を思いだしながら)


著者のことも、田村和子さんのことも、本当はよくわからないのだ。全体の姿がぼんやりとしているのに、局所局所が、くっきりと鮮やかに、見える。
それは、一枚の本当に美しい絵なのだ。
「あとがき」で、「わたしなりにわたしがみて感じた和子さんをスケッチしてみた」という言葉に出会って、ああ、と思う。
そうだ、スケッチだった。あの場面もこの場面も、あっさりとした水彩画だ。遠くに海のある水彩画だ。


『いちべついらい』は、「一別以来」、久しぶり、という意味だそうだ。田村隆一がいつか語った言葉だった。
この本、田村和子さん死去から二年を経て、著者から、亡き和子さんへの「いちべついらい」の挨拶でもあっただろうか。
ちょっと気取ったようにも思える、その言い回しは、この二人にこそ相応しい。
そして、それをひらがなであらわすのは、著者と和子さんだけに通じる照れ隠しの笑顔のようなものだろうか、などと思っている。