『私の方丈記』 三木卓

 

少年時代から鴨長明の『方丈記』が好きだったという三木卓さんは、自分の来し方や、今考えていることなどを、『方丈記』の文章に照らしながら振り返る。


子どもの頃を過ごした満州の大連のこと。早くに亡くなったお父さんのこと。焼け野原の日本に帰ってからのこと。貧乏のこと。居住空間や友人のこと。災害や政治のことも。


大連の子ども時代、朝鮮の子どもたちと日本の子どもたちが敵同士のように対立していたことについて書くが、個人的に朝鮮族の子どもを知っていたわけではなかったし、実際には出会いさえなかった。
「(子どもたちは)日本人の大人たちがいう差別的な言葉をそのまま受け入れてあざけっていたのではないか」と振り返る。
ここのところ、三木卓の『ほろびた国の旅』で、幻のあじあ号に乗った五族の子どもたちのうち、本当に楽しんでいたのは日本人の子どもだけだったというくだりを思い出す。


著者は、戦後の中国で「政治が崩壊してしまった世界」を体験している。驚異的なスピードで迫ってくるソ連軍を前に「ぼくたちは、何者によっても守られていなかった」
だから著者は「あの時のことを思い出すと、政治というものは、どんなものでもないよりはましだと思う」という。とはいえ、その先に「しかし……」があるわけだけれども。


著者は、日本のお祭りに、どうしてもとけこんでいけない、気づくと外に、はみ出してしまっている、という。それは、
「祭りというものが地域共同体のもので、他所者を締め出す性質をもっているからではないか」という。
言われてみれば思い当たることも……。


居住空間について。家はいつでも狭かった。
最も狭い住まいは、兄が大学時代に間借りした下宿のたった一畳。万年床を敷き「方丈記なんてお前、大広間だあ」に笑ってしまう。
もっとも心に残る「家」の話は、著者の子どもの頃のこと。
大連のアパートの屋上に、ある時、なぜかたくさんの畳が捨てられていた。
子どもたちは、それを組み立てて、小さな基地を作り上げた。
夕方、仲間たちが帰ったあと、だれもいない畳の小屋に、子どもの著者がひとりきりで座るところが、好きだ。
「古い匂い」を嗅ぎ、「仄暗くてせまく、懐かしい空間」に、読んでいる私もほっとしている。