『徘徊タクシー』 坂口恭平

徘徊タクシー

徘徊タクシー


認知症の人と暮らすと、してはいけないことやしてあげるべきことが山ほどあって、あって、あって、あって・・・
やってもやっても、どんなにやっても、やった、という手ごたえはない。
そして、自分の時間も、心の余裕も、どんどん吸い取られていく。
手を抜こう・・・そう思う。抜けるところはまだあるはず、できるだけやらなくてもいいことはやらないようにしよう。
それは自分を守るためでもあったし、自分を守ることは、認知症の人を守ることにも繋がるのではないか、そう考えることにして、いつも手を抜ける所を探していた。
ごくたまーーに、「お客様」としてやってくる親戚が、その場限りの大サービスを振りまくのは迷惑だと思った。
周囲の人をさんざん巻き込んで、我が家のリズムを乱して(その後遺症?は後々まで尾をひく)、自己満足して帰っていく親戚は、はっきり言って嫌いだ。


だからね、この本を読み始めた時に、途中でやめようかな、と思った。苦手かな、と思った。
主人公の失敗を小気味よくさえ思ったのよ。ほらね、そんなに単純にうまくいくわけないのよって。


それなのに、いつのまにか引きこまれちゃった。
認知症と健常者って何。自分の感じ方が正しいとどうして言える。
認知症の人は「ボケたんじゃなくて」「三次元空間を飛び越えて、新しい時空間に突入した」とか・・・ぶっとんでて、にわかについていけない部分もあるけれど、
じわじわとしみいってくるものがあるのだ。


自分の時間に余裕が欲しくて手を抜こうとしたのに、そうしているうちに、もしや心の部屋を狭めてしまっていたのかもしれない。
この本に出てきた主人公の母や、介護施設の看護士さんの気もちがわかる。まじめに脇目もふらずに生きてきた人たち。
マニュアル通りに日々をこなすことばかり専心していた自分に似ているかもしれない。
相手は人、自分も人。もっとゆっくりと時間をかけてつきあっていたら、今とは違うものが見えただろうか・・・とかなんとか書くと、またまた新たなマニュアルっぽい言葉になってしまうのだけれど・・・


認知症、それも徘徊の癖のある老人を乗せて、行きたいところにお供します、という徘徊タクシー。
このタクシーで老人を送り出すのは、老人の世話をする家族ということになる。
でも、このタクシーに老人を乗せたい、と思う家族は、「介護に困っている」人でも、「疲れた」人でもないだろうと思う。
不思議なことが大好きで、目を輝かせる余裕がある人。あるいはそういうことがもともと好きだった人。そうじゃないだろうか。
そして、こんなことばかばかしい、と思いつつ、いつのまにかこの計画に引きこまれたとき、自分がどんなに生活に追われていたか、知るのかもしれない。


わたしは、いつのまにか理屈を抜きにして、楽しんでいた。
謎の言葉を、解けるべき謎として、答えを探す小さな旅は、大きな冒険だった。
何しろ次元を超えるのだ。空間も時間も超えられるのだ。三次元の、よく知っている道を走りながら。
そんな不思議な旅ができたらすごいことだ。
丁寧につきあうことは、相手のため、というより、面白がりの自分のために。
ことは、きっとこれだけではない。
何かを決めつけたり、思いこみに閉じ込められたりしたら、ええっと、つまらないよねえ。つまらないのは損だよねえ。楽しくないよねえ。
と、まわりを横目で見まわしてみたりしている。