『ジャック・デロシュの日記 ――隠されたホロコースト』 ジャン・モラ

ジャック・デロシュの日記 隠されたホロコースト (海外文学コレクション1)

ジャック・デロシュの日記 隠されたホロコースト (海外文学コレクション1)


ジャック・デロシュは、第二次大戦下、ナチスのSS隊員としてポーランドのソビブル絶滅収容所で、№2(?)の地位についていた男である。
彼の日記を手にしているのは、現代に生きるエマという拒食症の17歳の少女。
エマは、日記を読み、ジャックという人間を知り、自分と彼との関わりを知り、激しいショックを受ける。
そして、いつのまにか日記が自分の「人生の一部」「人生の記憶」となっていくのを感じている。


自分本位の理想を高く掲げ、二十五万人もの人間を殺した男は、読書や散歩を楽しみ、詩や哲学を愛する若者だった。若々しい一途さや純粋さも持っている。
この青年は、特別な青年ではない。私のすぐ隣にいる。いいや、私自身のなかにもいる。
それから、目の前の現実に目をふさぎ続けたジャックの恋人、彼女も、私のなかにいる。「ジャック、ここで何が起こっているにせよ、わたしにはそれを話さないで。わたしには、何も言わないで。わたしは知りたくない。・・・」
ホロコーストにいきつくその欠片が、わたし自身のなかにもあるのだということを嫌というほどに見せつけられるのだ。


エマは自分の拒食症(さまざまなケースがあり、同じ症例はひとつとしてないそうだ)について、このように分析する。

食べない、ということは、自分を隔離することなのだ。ゲットーのようなものだ。自分のためにだけゲットーをつくりだし、無分別で恍惚感に満ちた背徳的な感情とともに、そこに閉じこもることなのだ。なんとしても他人とはちがった存在になりたくて、平凡であることから逃れるために選ぶ、不条理な差別化の形なのだ。そうなると、もう人と同じ感覚をもつことはできない。命を失った動物や植物を讃えるという食事の儀式において、気持ちを通じ合わせることができない。ものを見る目がねじ曲がって、無邪気な気持ちで食べ物を見ることもできなくなるし、他人が自分と同じ意見でないことに驚く。

彼女のありようが、60年の時を超えて、あのソビブルにふいに結びつく。人間としてのすべての権利をはく奪されて囲われ、殺されていった人々に。ねじ曲がった優越感のもとに微笑むあの男に。目をそむけて愛する人の瞳のなかに閉じこもったあの少女に。


最後の章では、見ないで済ませたもの、逃げ切ったつもりでいたはずのものを、もっとも残酷な形で告発される。
堰を切ったように滔々と流れ落ちる言葉に震えあがるが、一方で、17歳の少女が、この放出までに、どんなにどんなに苦しんだことか、と考える。
誰にも相談できずに抱え込み、あげくに、食べたくもないものを無理やり口に押し込み、吐き出し続けることに奪われた青春時代が、たまらない。


物語を読み終えたあと、ぼーっとなってしまった。この重さの正体はいったいなんなのだろう。この羞恥心、この痛み、この怖れ。そして、この無力感。
この本の副題『隠されたホロコースト』・・・隠し場所は、歴史の中か、地理の中か、記憶の中か、ちがう・・・わたし自身の腹の中かもしれない・・・