やさしいおうち

やさしいおうち (あさがく創作児童文学シリーズ2)

やさしいおうち (あさがく創作児童文学シリーズ2)


タイトルの「やさしいおうち」から思い浮かべるのは、かわいらしく、あたたかげなイメージでしたが。
「やさしい」って、そういうやさしさだったんですね。
始まりは、平和な朝のひととき。
どこにでもある母と子の会話・・・だけど、なんだか不自然で、なんだか固いのです。
当事者(?)たちの当り前さが、不穏な感じで、何かある、見かけどおりではない何かが、と思う。


元気な子どもたちが集団でわらわらと駆け回る物語が好きです。
四つ葉小学校五年三組のみんな、駿平をはじめとして、みんななんて生き生きしているのだろう。
子どもたちひとりひとりが生き生きしすぎて、個性ありすぎで、よくうまくいくなあ〜と思うのですが、
うまくいっているのです。いい仲間なのですよね。
それは、言葉にしなくても、それぞれが相手の個性を認め合っているから。
(いや、そんなこと言ったら、駿平くんに「なにつまらないこと言ってるの、このおばさん」と言われちゃうかもしれない。)
頭で考えてもできないことを体一つで、ごくごく自然にやってのけてしまう子どもたちはなんて素敵なのでしょう。
だから、そこに転校生がやってくるとしても、その転校生がかなり風変わりだとしても、秘密だらけだとしても、
たぶん、本当は最初から受け入れられる器をもった子どもたちだったんだろうなあ。


いろいろなテーマ、見せ場が盛りだくさんの物語です。
子どもたちが日々抱えているいろいろな問題や楽しみごとにはらはらしたり、どきどきしたり、
淡い恋心に、にこにこしたり、
彼らのまわりにいるおおらかでしっかりした大人たちにほっとしたりしながら、
彼らの冒険を夢中で追いかけていきました。
一番大きな試練の場面は、文字どおり手に汗握りました。
何度も負けそうになる子どもたちに「だめだよ、だめだよ、負けちゃだけだよ」と声をかけたいきもちになったけれど、
心弱まり負けそうになるのも、負けまいとふんばるのも、どちらも友だちが大切だと思ったからだった、かけがえがないと思ったからだった。
彼らの健気さに、何度も打たれました。


子どものときに(子どものときじゃなくてもいいのだろうけど)、友だちのことを一途に思う時があったなら、その瞬間は大きな宝物だ。
彼らの勇気やチームワークがまぶしくて、うらやましかった。


読みながら思っていた。
忘れてしまいたいことは本当に忘れてしまっていいのだろうか。
こんなこと、考えてもみなかったけれど、考えてしまった。
いっそ忘れたい!と思う記憶も、辛くてたまらない記憶も、そうそう簡単に手放してしまうのはやっぱり嫌だった。
どんなにつらい記憶も、今の自分を作っている大切な一片なのだ。
(巧みにリセットしながらいいところだけをより分けた思い出帳は、なんとうすっぺらいことだろう)
なくしたくないと思うのは、そういうことを、心の片隅で、ちゃんと気がついているからなのですね。
不幸な記憶も、恥ずかしい記憶も、だれにも言えなくても、やっぱり自分のもの、ちゃんと持っていたい。
でも、そう思うのは、持ちこたえられるだけの幸福な記憶(小さくても、ほんのわずかな時間でも)があるからなのかもしれない。
たとえばだれかを愛すること。愛されること。
かけがえがない、と思える友だちの顔を思いだせること。


やさしさって難しいです。
相手のことを思ってのやさしさのはずが、いつのまにか別のものに変わってしまうのは怖い。
自己犠牲がやさしさだと思うのも、気高いけれど、難しい。
難しくてわからないことだらけの大人だけれど、
爽やかな読後感に、元気になれました。ありがとう、五年三組のみんな♪