小さいおうち 中島京子 文藝春秋 |
戦前から戦中(東京の空襲が激しくなる前くらい)までの十年以上にわたって、平井家の女中をしていたタキの回想記です。
赤い屋根の小さな洋館。美しい時子奥様。
懐かしい日々のあれこれを振り返る。
切ないような輝きとほんのりとした罪の意識のようなものが混ざったノスタルジックな雰囲気。秘密。
ときどき、この手記を盗み読む甥の子(孫のようなもの)健史のちゃちゃが入り、憤然としたりするのも楽しい。
時代は大きく動く。
わたしたちは歴史を知っているので、健史のちゃちゃもわかる。
その上で、ああ、戦争が始まって、しばらくはこんなふうだったんだ、
庶民って(いや、かなり裕福な生活をしていた玩具会社の常務の家庭)の意識って、こんなふうだったんだ、
と興味深い思いで読みます。
おっとりとして、美しいものが大好きな奥様と、まるで親友か妹のような女中タキの関係。
だんな様と奥様の秘密。奥様の秘めごと。
時子奥様の親友睦子さんや夫の部下の板倉さんのこと。
また、この家の前の奉公先の小説家小中先生のお得意な話。
すべてが夢のようだった。
突然ふつっと終わる手記は、タキの死後、健史に残されます。
健史は、ひょんなことから、この手記の続き(あるいは裏の物語)を辿ることになるのです。
これが最終章です。
ああっと驚きました。そうだったのか・・・
タキの回想の中にちりばめられたあれらこれら、読み流していたあれこれが、今新たな意味を持ち始めました。
小中先生のお得意の話は・・・そうだったのか。
睦子のあの謎めいた言葉は・・・そうだったのか。
だからあの時タキは・・・奥様は・・・
いろいろなことが、さあっと違う意味になってよみがえって来て・・・改めて、わからなくなるのです。
何がどのように起こったのか、そのあとどうなったのか、それはわかりました。
でも、そこにいた人たちの本当の気持ちは・・・本当の気持ちはどうだったのだろうか。
すべての関係者が、すでに亡く、その思いは知りようが無いのですが、
この本に出てきた数少ない登場人物の誰も彼もが、一体何をどこまで知って、どんな思いでいたのだろうか、と・・・
そして、本当の本当は、どんな想いだったのか、と。
いずれにしても、どの人の思いも切なくて悲しいような気がします。
そして、振り返る赤い屋根のあの家は、きっと誰にとっても懐かしい美しいものであっただろう、と思うのです。
>「わたしを、気遣ってくれたのよねえ。それなのに、わたしったら、少し突っ慳貪になっちゃったわねえ。」後の世に、赤い屋根の『小さいおうち』の紙芝居が、やがて発見されました。
この紙芝居が現れたとき、バートンの絵本『ちいさいおうち』と初めて繋がったのです。
それは、どんなものだったのか。文章なしで語られるその物語になんともいえない気持ちになるのです。
この紙芝居の作者の本当の思いも、今ではわかりません。
もしかしたら、人々が愛していたのは、やっぱり特定のだれかではなくて、この家そのものだったのではないか。
この家をめぐるさまざまな物語ではなかったのか。
紙芝居の最後のように、この明るい家は、窓のなかに輝くのみで、あたりは真っ暗になります。
その真っ暗は、でも広さをも象徴しているような気がします。あの窓の外に出た少年は、そのまま広い世界を歩いて行きます。
そして、バートンの『ちいさいおうち』の物語を、もっと象徴的なものとして読むこともできるものなのだ、と知りました。
この本『小さいおうち』の、「赤い屋根の家」はたぶん、ずっとずっと変わらずにあるもの。
イノセンスというものかもしれません。
そして、変わっていく周りの景色は、この家の外で生きていく人々の人生のようでもありました。
暗い時代を『小さいおうち』を思いながら過ごしたこの本ユカリの人たちは、それぞれに言うに言えない思いを抱えたまま、
物語を未完のままに終えてしまったようにも思います。
タキは、なぜこの手記を健史に残したのでしょう。
彼にずっとこのノートを読ませていた、という経緯がある、というだけではないような気がします。
そして、「思ひ出」と上書きしたあの洋菓子の空き缶につめた品物や手紙類。
これもまた、残しておいたのは、健史の手に渡ることを想定していたのではないか。
健史によって、未完の物語を完結させて欲しい、という願いがあったのではないか。
そんな気がするのですが・・・。
絵本『ちいさいおうち』が、最後に、美しい野原に帰ってきたように、
こちらの『小さいおうち』も、最後に健史と恭一によって、安らかな場所に帰ってきたような気がしています。