鉱石倶楽部

鉱石倶楽部 (文春文庫)鉱石倶楽部
長野まゆみ
文春文庫
★★★★★


放課後の理科教室で二人の少年が手にとった天鵞絨(びろうど)貼りに金文字の本は鉱物図鑑だった。
放課後のゾロ博士の鉱物教室は不思議。先生は狐に似ていた、という、不思議にして澄んだ美しい文章で紡がれる小さな物語「ゾロ博士の鉱物図鑑」に魅了され、ほーっとため息をもらせば、
次のページから始まるのは「石から生まれた18の物語」


「石から生まれた18の物語」
これこそ「ゾロ博士の鉱物図鑑」そのものではないか、と思う美しい鉱物の写真。これらがほんとにほんとに実在する天然の石なのでしょうか。
添えられた石の説明は、狐顔の先生の語る講義がこれであろう、というものばかり。
たとえば、「葡萄露」と名のついた石の説明の一部「扇状の六角果をつける蔓性鉱物。天然のものと、栽培ものがある。」
え?と思う。鉱物・・・だよね? 「醗酵させた果実酒の人気が高い」とも。美しいカラー写真をみれば、たしかにこれで果実酒をつくったら、さっぱりとしておいしかろう、という気持ちになる。
この写真の裏に小さな文字でこう書いてある。「紫水晶」 そして、辞書にありそうな説明がついている。
このようにしてつぎつぎに現れる不思議の鉱物たちは、その名も美しく、わたしたちがいつでも手に取れるような図鑑に載っているのとは一味も二味もちがうのです。「氷柱糖」、「蛍玉」、「密雲母」・・・そこに付される解説もまた不思議。不思議なのだけれど、そのように言われれば、そのとおりに思えてくるから不思議不思議。(本当の名前と、その説明も次ページにちゃんとあります)
石とはなんぞや、と思うのです。
この写真の石がそのまま現実に存在するというだけで、神秘とも思うのです。「野茨粉果」と名づけられた鉱石は、褐色のバラの花のように見えます。これは本当の名前は「砂漠の薔薇」というのだそうです。しかも「砂漠で砂嵐が過ぎ去ったあとにこつぜんと現れたりする」といわれれば、これは、創作以上に真実は神秘。もはや、作られた世界が美しいのか、ありのままの姿が美しいのか、渾然一体、どうでもよくなってしまうのでした。

そして、魅力的なのは、ひとつひとつの鉱物が現れるに寄せて、その前振りのように置かれる詩のように短い18編の二人の少年の物語、いえ、物語のひとこまのその描写。これがまたよいのです。
このふたりは、たぶん先の物語「ゾロ博士の鉱物図鑑」に出てきた二人であろうか、と思うのですが・・・ああ、彷彿とする世界がある。うん、そう、この二人の名前はもしかしたらジョバンニとカムパネルラといいはしないか、と錯覚します。
一瞬「銀河鉄道の夜」を思い浮かべます。文章にも雰囲気にも。でも、やっぱり違います。それからクラフト・エヴィング商会を思い浮かべます。端麗にして丹念な美しい「だまし」に。でも、これもまた違うのです。
ただ、ただ、二人の世界がすてきですてきで・・・ほんとに、なんていったらいいのだろう。透明な鉱物を透かしてみたら世界はこのように見えるかもしれない。ささやかでなんでもない情景なのに、神秘的な光に包まれて、幸福な一瞬の結晶。手をのばしても届かない美しくてせつないような世界なのでした。


「砂糖菓子屋とある菓子職人のひとりごと」
お菓子なのだ、この美しさ、もろさ、やわらかさは、鉱石という言葉の硬い響きからは考えられません。アイスクリームのなかに混ざったミントのすーすーする感じ。果実のエキスをきっちり閉じ込めた甘酸っぱいドロップ。さくさくとしたミルフィーユ。そんなものを思い浮かべます。ああ、おいしそうで楽しい鉱石たち。(元の名前なんて忘れました。ごめんなさい)
そして、そこに添えられた菓子職人らしい詩のすてきさ。

あとがきにかわる作者の言葉「石を売る舗」で、「海辺や川原の石を拾ってきてはいけないと思っている。そこには何かしらのタマシイが宿っているからで、在るべき場処におかなければならないと子どものころに聞かされた。山では拾うどころか動かしてもいけない。それはタマシイの問題ではなく安全上の常識としてだ」と書かれています。
動かしてはならぬ。
そして神秘の鉱物たちは天然自然のふところに抱かれて、その光を自らのなかに秘めてひっそりと静まっているのでしょう。わたしたちの地球は静かにこの不思議な結晶にお伽噺を聞かせながら眠らせています。
ああ、石の魔法は、この本を閉じてもまだ続いているのです。