f植物園の巣穴

f植物園の巣穴f植物園の巣穴
梨木香歩
朝日新聞出版
★★★★


端麗な文章は、最初から最後までくずれることがなくて、時代を映す鏡のように澄んでいます。
ぴんと背すじののびたすっきりとした文章でありながら、どこか現実感がなくて、人を喰ったような文章でもある、と感じます。
この文章が、わたしを絡めとり、異世界へ誘っていくようでした。
これは夢の世界なのか、現実の世界なのか。
どこが現実で、どこから夢なのか・・・行けども行けども夢のようなとりとめのなさなのです。なのに何故か飽きることなく、この文章の妙に酔っています。まるで狐にばかされているみたい。

主人公「わたし」はf植物園の園丁です。
ふと気がつけば、普段寝起きしている世界に、そこはかとなく不思議が混ざっているのですが、いつからか、なぜなのか、どうもはっきりしません。
下宿と勤め先の植物園、歯科医院とのあいだを行き来する日々の中にあって、あれこれの不思議にあいながら、いちいち不思議を不思議と思うこともめんどうになりながら・・・どうも自分は何かをさがしているらしい、と感じます。
それも自分の意志ではなく、何かが、そのように仕向けているふうなのです。
なんとなく、この世界で出会う様々なものたちみんなして、「わたし」がどちらに向かうのか、じっと息を殺して見守っているような、なんとなく思うほうに足を向けさせようと結託しているような・・・

とりとめのない物語、と思っていたのが、終盤に近づくに連れて、単なる夢物語ではなかった、と気がつきます。
巣穴――穴といえば、不思議の国のアリスではないけれど、落ちていく落ちていく・・・これはそのようにして下っていく物語です。
前世の姿が犬であった歯科医の女房。
げえろっぱでくるむ死んだかえる。
木のうろの中から聞こえる赤ん坊の泣き声。
ずっと流れ続ける川の流れ。
まだ残っているという乳歯。
時と所によって姿形を変えるというアイルランドの女神カリアッハ・べーラ。
それにしても、だれに導かれての不思議の道行きだったのでしょう。
思いがけない連れ・・・

静かに繋がって一つの物語が形作られていくときに、ふいに再生の道が出現するのです。歯科医が、抜けた乳歯のあとに、新しい歯の萌芽が見える、と言った言葉が印象的でした。
やがて、胸を温かいものが流れ始めます。

記憶って不思議なものだと思いました。
思い出したくない記憶は防衛本能からか、自然に蓋されてしまうのか。
忘れてきた物語。思い出さずに済ましてきた物語。いつのまにか変ってしまった物語。
そうやって、消えたことさえも気がつかずに無事に生きてきて、では、消えた物語はどこへ行ってしまったのでしょうか。
呼べば戻ってくるのでしょうか。戻すためには、それ相応の犠牲を払い、長い旅をしなければならないのでしょうか。
そのようにして呼び戻すことで、取り返せるものは何なのでしょうか。
そんな物語が、わたしにもあるのでしょうか。