『ヤービの深い秋』 梨木香歩

 

ヤービの深い秋 (福音館創作童話シリーズ)

ヤービの深い秋 (福音館創作童話シリーズ)

 

 

自然豊かな湿地帯マッド・ガイド・ウォーターを舞台にしたシリーズ、『岸辺のヤービ』に続く二作目。
語り手は、サニークリフ・フリースクール(寄宿学校)の先生ウタドリさん。
彼女は、休日をこの湿地帯でボートに乗って過ごし、その間に、クーイ族(妖精)の子どもヤービと出会い、「イシュカンコウリュウ」するようになる。
その続きのお話。


物語も文章も、挿し絵も、それから装丁も、味わい深く、前巻同様ちょっと古めかしい子どもの本のようだ。
子どものころ、本を買ってもらった日の格別な嬉しさを思い出す。
(その一方で、なんだかもやもやとした不安も感じている。
なぜ、今、ヤービなんだろう。
この愛おしい物語の存在が、何か不穏な現実に懸命に掉さそうとしているようにも思えてしまって)


さて。
前作『岸辺のヤービ』の最後に、ウタドリさんは、「(次回は)サニークリフ・フリースクールのお話ができるあんばいになっていればいいが……」と言っていたように、サニークリフ・スクールの子どもたちや先生が出てくる。


ヤービたちクーイ族は、冬眠に入るものたちも、南に渡って行く者たちも、その準備で大忙しの秋なのだ。
そこに(ほとんど伝説になりかけている)グラングランパ・ヤービがみつけたという幻の茸ユメミダケの話が出る。
トリカのママのためにこの茸を探して、ヤービたちはややこし森に入っていく。
同じ頃、フリースクールの生徒ギンドロはある事情から、幻の茸、テーブル・マッシュルームを探しに行きたいと思っている。彼とウタドリさんは庭師のカンヌキさんの案内で、テーブル森林渓谷へ茸を探しに出かける。
フリースクール創始者ビッグ・オークの伝説が、グラン・グランパヤービに重なるようだ。
ヤービが目指したところと、ウタドリさんたちが目指したところは同じところ。
そうすると……


前作で、いつもボートの上にいたウタドリさんが、ボートを下りて今、森を分け入って歩いている。年若い生徒を導いて。
いつもボートの上にいたウタドリさんを、私は、観察者(あるいは証人)的な役割をする人、と決めつけていた。その人が森の道を奥へ奥へと進んでいく姿は、周辺の人が内側に入っていくイメージで、印象に残る。


命の不思議。命の愛おしさ。
『f植物園の巣穴』に通じるテーマにも出会ったと思う。
ヤービが、アメウオの不思議な道に気がついたように、この物語も、あちらの物語と、何処か秘密の水路で繋がっているような、響き合っているような気がする。
一見やさしい物語であるけれど、この「命」の物語は、実は大きな危険と裏表でもあるようにも感じる。
それは、ウタドリさんが、「秋のきもち」について語る部分に似ている。


「なんだか胸のあたりがつらいんです。でも、いやじゃないんです」
というヤービに、ウタドリさんは、それは「秋のきもち」だ、と伝える場面がある。
秋の気持ちを知る人は、世界がより味わい深く感じられるのだと。
でも、ウタドリさんは思っている。実は良い面ばかりではないこと。
それを、怖れてしり込みするよりも(しり込みしようもないのだけれど)そういうものを知る(持っている)自分を受け入れる事で、踏み入って行ける場所もあるのだ。
「なぜなら、ほら、世界はこんなに光りかがやいて、生きているあなたに、親しげに語りかけ、世界の細々とした秘密をおしげもなく見せてくれているのに、それに気づかないふりをするなんて、とてもとても、もったいないことだからです。」


最後に、ウタドリさんは、あることについて「今がそのときではない」という。
何年か後のトリカが「どうしても生まれないといけないことば、生まれようともがくことばが、大地をつきやぶるように」わき上がってくるのを感じたように、そうやって、「そのとき」も、やってくるのではないか。
それは遠くない未来だろう、と予想しつつ、つづきの物語を楽しみに待っている。