昼の家、夜の家

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)


たぶん重要なサインをたくさん読み落としている。知ってる人なら知っている、という出来事や名まえもあるにちがいない。
不思議で魅力的な本でした。
ちょっとキアラン・カーソンの『琥珀捕り』を思い出すほど、ちまちまととりとめもなく、いろいろな物語や場面が錯綜しながら現れ消えていきます。
タイトル「昼の家、夜の家」。昼と夜・・・光と影、生と死か。家は・・・魂の宿る肉体のことだろうか。
文章は美しく、舞台はポーランドの田舎・・・牧歌的で平和な風景が広がります。
でも、この上に描かれる物語、そして、人々・・・だれもかれも見た目は普通なのに、普通じゃないのです。
普通じゃない、と感じるこちらのほうが、もしや普通じゃないんじゃないか、と思うくらい、
普通じゃない人たちが普通じゃない人生を普通に生きているのでした。さまざまな物語の断片になりながら。
美しくて醜悪。
これはいったい何なのでしょう。


ノコギリ男の話が出てきます。庭の木の伐採を請け負うこの男は、木を最終的に小さな木屑にまで分解しなければ気が済まないといいます。病的に細かく。
この物語も、何かが分解された小さな欠片の集まりになっているよう。
それでもその欠片を掬いあげていくと、何かがうっすらと見える気がする。
何か暴力の傷跡のようなもの。
たとえば、この国がドイツに占領されていたということ、アウシュビッツがこの国にあったということ。


繰り返し表れるキイワードのような言葉があるのですが、印象的なのは「きのこ」と「夢」・・・
きのこに関する描写は決して気持ちのいいものではない。(ほかのものと同様に)
きのこはどこにでも生える。さまざまな姿かたちで。
物語中、あちこちに出てくるキノコ料理のレシピに使われるのはすべて毒キノコです。
レシピ通りに作ったら本当に洒落ていておいしそうなのです。でも素材は毒キノコ。
語り手「わたし」は毒きのこをむしゃむしゃ食べる。
読んでいると、「わたし」はいつか巨大なきのこになっちゃうんじゃないか、と疑いたくなる。
それもホコリタケみたいな地味な毒茸。
森に打ち捨てられた車のシートにびっしり生えたキノコの描写にはぞわぞわっと鳥肌が立つ。
地平線に光の尾を引きながら上ってくる朝日さえも、茸を連想させるっていうんだから。
(茸きらいになりそうだ。)


夢の話も繰り返し出てくる。そのどれもが不気味で・・・
熱があるときに、ああいう夢みそうだな、というような・・・うなされそうな夢。
グロテスクだけど、滑稽でもあります。
だけど、どこまでが夢なんだろう。現実もかなり狂気に満ちています。
やがて、夢も現実も境目がみつからなくなります。


生が夢で死が覚醒なのか。生と死とをつなぐのは茸なんだろうな。
腐乱した死体に生え、死体を突き抜けてその柄は地面に達する。
不気味なくらいに力強く、繁殖する。その生きざまは醜悪です。
茸は、死の上に根を張って夢を見る。
そして、茸はたぶん「人」を意味しているのだろう。
自分らの生命力を恐れる。うんざりする。
でも、紙一重なんだ。裏表なんだ。醜悪さの向こうに見えるものと。(そちらにじっと目をこらしている。)
(読み終えたら、表紙の絵が、群生する茸に見えてきました)