アイルランド民話紀行

アイルランド民話紀行 (集英社新書)アイルランド民話紀行
松島まり乃
集英社新書
★★★★


アイルランドじゅうを、語り部から語り部へ、お話からお話へ、と松島まり乃さんは旅をする。
まり乃さんの聴いたお話が豊富に盛り込まれているのがうれしいです。
聞いたことのないものはもちろん新鮮で楽しいのですが、聞いたことのあるものも、少し姿の変った旧友に再会したような懐かしさを感じました。
一口にアイルランドと言っても広いのですね。地方によって少しお話が違っているものがあっても、自分たちの地方の伝えが一番良い、と胸を張る語り部が微笑ましかった。

そして、物語もさることながら、物語を語る人たちの横顔のなんと魅力的なことでしょう。
子供の時に妖精に本当に会ったことがある、と語る老人、「日本の女性によろしくな、わしは金髪(!?)が好みじゃ」とのたまうおじいちゃん、一度でも聞いた声はほとんど忘れないという語りのプロ達・・・
そして、語ってくれたお話のあとで、きっと請われることは、「日本にはどんな物語があるんだね? 歌も聴きたい。無理にとは言わんが・・・」
名刺代わりにお話の交換、でしょうか。昔からそのようにしてお話がまわって来た伝統でしょうか。語り、聞き、また語り・・・語ることも聞くことも心から楽しむ、なんと素敵な語りの夕べ。

語り部と呼ばれる人だけではありません。普通に暮らすたくさんのアイルランドの人たちが、当たり前のようにお話を聞いて、お話に育まれて大きくなったのだと、だれもが言うのです。
あの素晴らしい歌声のエンヤも、女優スーザン・リンチ(映画『フィオナの海』に出演)も、耳から聞くお話に育まれて大きくなったのだ、と。

「子どもの頃、ご両親から物語を語ってもらった記憶はある?」との松島さんの質問に、一人のミュージシャンが「おふくろから小さい頃、良く語ってもらったよ」と答えて、「クーハラン、大好きだったな。もちろん、戦う彼に、自分自身を重ねたものさ」と。
現在、日本の青年で「小さい頃ヤマトタケル、好きだったな」とすらりと言う人がいるだろうか、と思いました。

これだけたくさんの物語が人びとの中に、口承文化として生きているということに、アイルランドの紛争に継ぐ紛争の歴史を思います。辛く苦しい日々の中で、人びとの心を慰め、子どもたちを健やかに成長させたのは、この語り、と思いました。アイルランドの底力は物語(と音楽)の伝統ではないだろうか、と感じました。

しかし、もともと村の中や家庭の中、人びとの集まるところに自然にあった「語り」の文化がだんだん廃れ始めているそうです。
昔はいなかったプロの語り部、という人びとが現れたのは、語りの荒廃に歯どめをかけようとの動き。
文字にして遺すこと、テープやディスクで遺すことなどが始まっていること。それに対して、筆者松島さんは、「物語る」という行為の未来に不安を投げかけています。「文化は『保護される』ようでは、もう死んだに等しい」という言葉や「文字にされれば、物語は死ぬ」との言葉が深く印象に残ります。
「人が集まる習慣が、いつの間にかなくなってしまった。みんながそれぞれの家に閉じこもり、居間に置いた箱から出てくる絵や音に夢中になっている」という、一人の語り部の老人の言葉もあります。
アイルランド民話の文化も曲がり角に来ているのかもしれません。

一方、こんなインタビューもあるのです。
ある若い夫婦は、こういう。「うちにはテレビは置いてないわ。最近、少しの間だけ置いていたのだけれど、長男のトゥイギーがアメリカ英語を話すようになったので、ぞっとして捨てたの。地元の文化があまりにも簡単に、テレビによって弱められてしまうって怖いことよ」「大人は自分の分別があるからいいけれど、子どもはテレビを最初に体験すると、現実を知らずにそれが世界そのものだと思ってしまう。危険だと思うわ」
非常に興味のあるお話なので、思わずひざをたたき深く頷いていました。
このご夫婦自身が、幼い頃にあふれるばかりのお話に漬かって育ったんですね。そして、大人になって父母になる。なんて幸せなお子さん達でしょう。

アイルランドの、というより、自分の身近な出来事として、わたしはこの本を受け止め、改めて物語の力を感じました。
せめて、子どもたちが小さいうちは、たくさんのお話でくるみこむように子育てを、子どもたちがおとうさんやおかあさんに語ってもらったお話の思い出をもてるように、と思います。
そして、大人たちにもきっと物語は大きな知恵(それがどういうものかわからないけれど)を授けてくれるに違いない。日本人のわたしたちも沢山のお話を持っている。世界中のお話を持っている。口から口につたえられたお話は、やはり口から口へ・・・。
お話がお腹の中で醗酵して形を変えて何か大きな滋養となっていることを願って。

>わしらが語っているのは民衆の歴史だ。物語のなかには、名もない人々の考えや好み、行動が反映されている。つまりそこには、わしらのルーツがあるんだ。だから、テレビの出現くらいでこの伝統を滅ぼしてはいかんのだ。