極北で

極北で (新潮クレスト・ブックス)極北で
ジョージーナ・ハーディング
小竹由美子 訳
新潮クレスト・ブックス
★★★★


   >1616年8月、英国の捕鯨船が男をひとり極北に残して、帰航の途についた―― (カバー裏のレビューより)

男の名はトマス・ケイヴという。次の夏に捕鯨船がもどってくるまで、この極寒の地でただひとり、越冬しようとしているのだ。それは、乗組員同士の口論の勢い(?)から出た「賭け」だったのです。
ばかばかしい、冗談だろう、と笑い飛ばせばすむだろうに、あるいは他の人間達がくだらんと言えばそれですむだろうに、こんなに厳粛な契約なのだろうか、賭けって。船長を中に入れて、双方の賭け金をきっちり預けて。
・・・瑣末なことかもしれないけれどまず、ここで驚いたのです。そして、これが時代なのか、これが生死を分ける海で働く男達のおきてなのか、どちらにしても自分の言動の隅々にまで責任を持とうとする厳しさとプライドを感じました。
いえ、そもそもそんなくだらない話を気軽に口にするような男ではなかった、ケイヴは。仲間から離れてここに残る理由があったのです。

この物語は、もうひとりのトマス――トマス・グッドラードという当時ほとんど少年に近いような若者が、20年ものちに過去を振り返って物語った話。そして、トマス・ケイヴの日誌を中心にした物語。この二つによって構成されています。

わたしたちは、トマス・ケイヴと一緒に極北の地に残り、彼の冬を追体験するのです。そして、闇と氷の世界で、彼の追憶と幻覚の中で、ここにくるまでに彼の身に何が起こっていたかも知るのです。
一方、何も知らないトマス・グッドラードは、何も知らないながらに、ケイヴに惹かれ、彼を慕い、彼のこと知りたいと願っています。ケイブの来し方を辿り、探し、彼の気持ちを理解し、彼の傍らに立ちたいと願っているのです。
この二つの物語を同時に読みながら、読者は圧倒的な孤独の中に深くひきずられていきます。大自然の中の孤独。人の中の孤独。

時は1616年だというのです。魔女裁判が横行していた時代とのこと。
この時代に、テント(どんなテントなのだろう。ちょっと想像しにくいのですが、小屋のようなもの?)と寝具としてはトナカイの毛皮で、極北の地で冬を越す。生き残っていたら奇跡。(例の賭けも、ケイヴが生き残るほうに賭けたものは誰もいなかった。)
太陽が消え、氷と雪に閉ざされた世界で、闇と嵐のなかにひとり。

>ありがたい太陽を再び拝めるまで、生きて、正気でいられますように、と祈るのだ。どうか現世に留まっていられますように、と。時として、妄想や夢想が現実よりも鮮やかに見えてくることがある。

>本当のことを言えば、この凍える日々に耐えていくうえでもっとも辛いことは、夢想ではなく、夢想の欠落なのだ。寂しさだ。

>日々の生活の物質面に関しての記録を、彼は几帳面に続けている。(中略)これは自覚しているものの決して言葉にはしないことだが、この日記を書くことで心の安定を保てるからなのだ。

けれども、この恐ろしいほどの孤独の恐怖の中で、半分正気を失いかけているというのに、ケイヴの心がどんどん澄んでいくような錯覚(?)に陥りました。
これはもう恐怖でも孤独でもないのではないか。そういうものを超えて、ただただ清潔なほどの静けさを感じました。
そして、究極の怖いほどの寒さ暗さなのに、何かが啓けていく一種の明るさを感じるのです。
印象的なのはよく片付いた室内。あるべきものはあるべき場所にある。磨かれたテーブル。絶やさぬ火。そして静かに鳴り出すバイオリン・・・
そして、感じる。これは宗教も何もかも超えた敬虔。

けれども、これは、あの地で冬を体験した者だけが知ること。幾百万の言葉を尽くしても、決して余人にはわからないこと。