『月の満ち欠け』 佐藤正午

 

岩波文庫的 月の満ち欠け

岩波文庫的 月の満ち欠け

 

 

「神様がね、この世に誕生した最初の男女に、二種類の死に方を選ばせたの。ひとつは樹木のように、死んで種子を残す、自分は死んでも、子孫を残す道。もうひとつは、月のように、死んでも何回も生まれ変わる道。そういう伝説がある。」
「そう、月の満ち欠けのように、生と死を繰り返す」
そして未練のある恋人の前に現れる……生まれ変わって何度でも。


新幹線はやぶさを降りたった初老の男は、東京ステーションホテルのカフェで、待っていた一組の母子に会う。後から、もう一人来るらしい。
さて、彼らはどういう関係なのか、なぜここで待ち合わせをしているのか。
読んでいると、うすうすだけれど、たぶんそういうことなんだろう、と思う。
穴あきジグゾーパズルのピースが、おもしろいくらいにぴたぴたと嵌っていくので、本来ならすっきりしてきそうなものなのに、「でも……」という言葉がどんどん膨らんでくる。これは一筋縄ではいかない。どういう風に読んだらいいのか。
薄く眼を開けた少女が、戸口の向こうから、私を見ているような気がする。


深く愛した人との日々が思いがけず寸断された。
……わけではない。
ひたむきな愛情は、ただ一つの方向に向かって突き進む。
そのほかのすべて(周りの人の気持ち、愛情)を踏み台にして、あるいは、残酷に使い捨てていく。
ただ一つの道すじだけしか見えない。見ようとしない。清々しいくらいに一途だ。


だけど、その一途さに、私は戸惑う。
そう思うのは、ここまで強く誰かに恋したことがなかったからかもしれないけれど、恋人よりも、寧ろ、親子のことが心に引っかかっている。
天塩にかけて育て・育てられた、何年もの日々は何だったのだろう。
うけいれられるか、うけいれられないか、という話が出てきたが、それは、そういう現象を、そっくりそのまま受け入れられるかどうか、ということではなくて……


親にとって(あの話もこの話も、コロンとサイコロがひとつひっくり返ったようなあの話も)宙ぶらりんで、あまりに切ない。
わが子はほんとうにいたのだろうか。いたなら、どこにいってしまったのだろうか。共に過ごしたあの日々は何だったのか。
考えれば考えるほど、物語の最後に残るのは虚しさで、その虚しさを「うけいれる」勇気が自分にあるかどうか、ということだろうか。「うけいれる」ことがもしかしたら、究極の愛かもしれないと、思いながら……いや、そんな……



ところで、この本、岩波文庫の一冊だと思うでしょう?
わたしはそう思っていました。
ところが、途中で気がついたのです。
本の装丁が、大いなる遊びになっていることに。
ほら……ね。……気がつかれていましたか?