『ミッテランの帽子』 アントワーヌ・ローラン/吉田洋之(訳)

 

ミッテランの帽子 (新潮クレスト・ブックス)

ミッテランの帽子 (新潮クレスト・ブックス)

 

 

ある日、パリのブラッスリーに大統領フランソワ・ミッテランが置き忘れていった黒いフェルトの帽子は、その後、次々に人の手から手へと渡った。
不思議なことに、この帽子の持ち主になったとたん、その人の運命は、好い方向に転がり出す。


自分をふりかえって、言いだせないまま(行動に移せないまま)心にもやもやと抱え込んでいるものはないだろうか。
それを表に出すには、かなり大きなエネルギーが必要だし、責任だってある。
これまで自分がコツコツと築き上げたものを全部壊してしまうかもしれないし、まわりの誰かが具合の悪いことになるかもしれない。
そもそも、それを今ここで持ち出すことは本当に適切なことなのだろうか。
そんなもやもやが、ある日(つまり、帽子の持ち主になったとき)すんなりと口からも態度からもあふれだす。
思いもかけなかった運命好転の鍵は、そこなのだ。
「つい最近まで信じていたものに攻撃を加え、一つずつそれらが崩れ落ちていくのを見るにつれ、自らの翼がはばたいていくのを感じた」


帽子が起こした奇跡だろうか。
いいや、帽子の持ち主たちのほんとうの気持ちは、その時には、すでに決まっていたのではないか。ずっと、そちらの方向に、思いきって梶を切りたいと、そう思っていたのではないか。でも、踏み出せなかった。
最後の一押しをしたのは、帽子だったか、自分自身だったか。


わたしが思い浮かべたのは、民話「わらしべ長者」。
こちらの物語の主人公は、(不思議であろうがなかろうが)やっぱり帽子かもしれない。もし帽子に心があるならば(あるような気がしてきた)次々に人の頭から頭を渡っていきながら、その人の運命が違う方向に開かれていくのを眺めて、とても楽しかったことだろう。


「八〇年代という時代は文化的にも政治的にも重要であった」と、訳者あとがきに書かれているが、物語には勢いがある。ふつふつと湧き上がってくるような活気を感じる。その中で帽子がくるくると踊っているような印象だ。
ちらほらと軽やかに(でも、痛烈に)皮肉を撒き散らしながら陽気に踊っている。


「洒脱な大人のおとぎ話」という謳い文句がピッタリの粋な物語だった。