『片手いっぱいの星』 ラフィク・シャミ

片手いっぱいの星

片手いっぱいの星


「ダマスカスに住んでいる少年の日記、という形式をとっている本書は、作者の自伝的色彩の濃い作品です」とは、訳者のあとがきから。時代は1960年代のはじめごろだそうだ。
「ぼく」が中学生のころから、18歳くらいまでの日記である。


物語の前半では、成績がよくて、クラスで一番になったことが嬉しい「ぼく」と、学問がいったい何の役に立つのかという父との葛藤がことに印象に残る。
父はパン屋なのだ。自分が若いうちに親の仕事を引き継いだように、息子も学校をやめてパン屋の仕事を覚えることを望んでいる。
息子は新聞記者になりたいと思っている。理想の記者の姿があるのだ。
家族と自分の関係、ガールフレンドへの気持ち、仲のよい友達のこと、教師たちのこと、自分の将来の夢などを書く中学時代の「ぼく」は、どこの国のどこの町にもいそうな少年に思える。


そうした彼の日記の中に、政情に対する不満・批判が多く混ざり始めるのは、突然、父が間違えて逮捕される、という事件が起こった時からだ。
同じアパートに住むサリームじいさんはいう。
「やつらはな、わしらを骨抜きにするためにあんたをぶちのめしたんだよ。あんたがただのパン屋だってことは、やつらはちゃんとわかっていたさ」
ダマスカスでは、人々があちこちで無制限に検挙され、たくさんの人々が危害と辱めを受けていた。


新聞記者になりたい、と夢見ていた「ぼく」は、やがて、この国の新聞記者の実情を知る。
新聞はすべて政府の新聞だった。
政府を批判する記事を書く記者はいないのだ。そんなことをすれば政治犯として逮捕されるし、政治犯を弁護する弁護士はいない。
でも、「ぼく」は新聞記者になる夢をあきらめない。


サリームじいさんは、彼の一番の親友だ。
じいさんは、「ぼく」が幼いころから、たくさんのお話を聞かせてくれた。
「サリームじいさんのいうことはうそばかり」という人もいるけれど、本当はみんな知っている。事実と違うから嘘、というわけではないこと。


サリームじいさんが「ぼく」を誘って、喫茶店に「話」を聞きにいったときの逸話も忘れられない。
当時のダマスカスの喫茶店には「語り部」がいて、集まってくるお客に、さまざまなお話を語って聞かせていた。
「大声でわめいて、手をふりまわしたって、ちっとも感動せんわい。話は小さな声でするもんだ。声が小さければ小さいほど、いい語り部さ」


幼いころから一緒に駆け回った同年代の親友マハムートは、決して明るい性格ではないけれど、どんなときでも、状況を笑うことができる。その笑いに、「ぼく」は驚き、何度も助けられる。
中学時代のアラビア語(国語)の先生カーティプ先生。「ぼくたちは、前の先生からはことばに対する畏敬の念を学んだが、カーティプ先生は、ことばを愛することを教えてくれる」
新聞記者のハビープさんは、自身が記者であり続けることに絶望していたが、それでも、「ぼく」に記事の書き方を教え、手助けしてくれた。
後に「ぼく」が勤める本屋の店主は、彼が店の本をいつでも読めるようにしてくれた。


揺らぐことない「ぼく」の言葉への信頼。その大元のところに、素晴らしい友人たちがいる。
タイトルの「片手いっぱいの星」って、友だちと言葉のことではないかしら。
両手に溢れるほど星はいらない。片手いっぱいの星は、どの星も明るく輝く。
手の星を掲げて、暗がりで「ぼく」は道を探す。