『こゝろ』 夏目漱石

 

こゝろ (角川文庫)

こゝろ (角川文庫)

 

 

角川文庫のこの本は、本編の前に、2ぺージにわたる「夏目漱石『こころ』――あらすじ」が載っている。堂々としたネタバレである。つまり、再読にせよ初読にせよ、内容を知った上で、しかも何度でも味わうことに意味があるよ、そういう作品なのだよ、ということだと思っている。


「私」は、田舎から都会に出てきた大学生だ。
親元を離れて都会に出てきた彼は、
若者らしい不遜さで、両親のおかげで自分がもたせてもらったものを、自分の両親がもっていないことに、物足りない、と感じたのだろう。(自分がもっていない大きなものを親がもっていることには気づくこともできないで)
「精神的に向上心のないものはばかだ」これは、後に出てくる先生の親友Kの言葉だけれど、「私」が一途に求めたのも、精神的なものだったと思う。
 郷里の人びととはまったく違う雰囲気の先生に出会ったとき、彼は、先生には、そういうものがあるように感じた。そうして惹かれていく。


後半、先生の手紙になってから、なかなかページが捗らなくなった。
赤裸々な罪の告白である。詳細に丁寧に、自分の罪を書き連ねていく。
自分の卑しさをこうまで徹底的に書けるのか、と驚いたし、先生が書いているような卑しさは、私自身のなかにもあるのだ、と思い知らされて、読むのがつらくなってくる。
その一方で、この手紙には微妙な違和感がある。


親友Kの自殺についての描写、そのときの自身の行動や心情を時の流れに従って詳細に描く、その丁寧さが、なんだか他人事のように感じられる。他人の目で、当事者の姿を細密になぞっているように見える。
Kの死のなにを、先生は本当は悼んでいるのだろうか、と考えてしまった。
Kが亡くなる前に、先生は「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ」と感じている。その「負けた」を修正するチャンスを失ったことを惜しんでいるのではないか。


それでも、先生はお嬢さんと結婚する。幸福だったけれど、この幸福は「最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうか」と思ったという。ここも、妻を置いて「私(先生)」なのが引っかかる。
先生の妻の結婚生活は、先生の気持ちを量りかねて(聞いても相手にされず、ごくささやかな夢さえもつこともできず)まるで生殺しのような毎日だったではないか。そのあげくに「妻がおのれの過去にもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたい」とは、なんて傲慢で残酷な言葉なのだろう。
自分の卑屈さへの怒りの、間接的なはけ口が、妻の存在になっているように、見えなくもないのだけれど。

先生の妻については、最初のほうで「私」が、こう言っている。
「私は奥さんの理解力に感心した。奥さんの態度が旧式の日本の女らしくないところも私の注意に刺激を与えた」等々。
つまり、この作品は、彼女のことを床の間の人形のようには書いていないのだと思う。先生はそう思わなかったのか。そもそも、先生は、彼女のどこに惚れたのだろう。


こんな手紙を残された者は、どうすればいいのだろうか。
しかも、この長い長い手紙は、危篤父の枕頭にいる「私」に宛てたものなのだ。相手がどんな状態にいるか知っていながら、それでも、送りつけずにいられなかった手紙なのだ。

罪というなら、この手紙こそ、とても罪深いとわたしは思ってしまう。
いっそ黙って胸にしまっておいたほうがよかったのに。


 読めば読むほど、先生という人が、不気味に思えてくる。

丁寧な語り言葉(自分はこういうものだ、と本人が思っているもの)とは別の冷たいものにさわってしまった感じ。