『マルの背中』 岩瀬成子

マルの背中

マルの背中


お母さんの仕事はみつからない。家賃を滞納してあと二か月でアパートを出ていくようにとの通知がくる。
真夏なのに、扇風機さえも贅沢。
たった一人の家族であるお母さんに「いっしょに死んじゃおうか」なんて言われる、小学三年生の亜澄の生活が普通であるわけがない。


「亜澄ちゃん」と声をかける大人たちが近所にはいる。
そのことにほっとしそうになる。
けれども、小学三年生は、大人が思っているよりもずっと鋭い。
「どの大人も何かを隠している気がする。隠して顔だけ笑っているような気がする」
やさしそうな言葉に「ねばっこい声」をきいている。


彼女は「ねばっこい声」の大人に尋ねられて嘘をつく。
自分がどういう家の子か。
両親と弟がいる家。日曜日はおとうさんの車でおでかけする。入院中の弟は家族が毎日見舞う。
それは彼女の出会った友達の家の様子の合体。
彼女自身の憧れの家族像か? むしろ、相手の大人が描く、望ましい家族像の再現なのだ、と思う。
大人の「ねばっこい声」を聞きとる子どもは、相手が思い描く世界をそのまま描きだして見せることもできるのだ。


小学三年生の子どもなのだ。
働きに出たお母さんがちゃんと帰ってこない時の不安と恐ろしさは、ぎりぎりと迫ってきた。
母親の不安定さが、何十倍もの不安となって少女を襲う。


こんなに一人で抱え込んでいる子どもを、ちゃんと守ってやれる大人はいないのかな、
亜澄が心底ほっとできるようなよりどころはどこかにないのかな、と私は、きょろきょろしてしまう。
いやいや、こんなことを考えるわたしの言葉もきっと「ねばっこい」


彼女は、むしろ、自分のほうが守ってやらなければならない相手に心を寄せる。
預かった猫のマルをかわいがり、離れて暮らす弟の声をときどき思いだす。
力弱い誰かに寄り添ってやろうとすることで、自分自身も寄り添われているのかもしれない。
猫のマルに歌ってやる歌。弟の理央が話していた目に見えないゾゾ。
それらが、彼女の内側から彼女を支えているように思える。


夏休みの数日間の出来事で、何かが劇的に変わるわけではない。
頼りになる大人は最後まで出てこないし、少女の日常にエールが送られるわけでもない。
物語は、おためごかしの救いも、無責任な希望も退ける。
このように生きている、生き延びようとしている子どもがここにいる。