『かげふみ』 朽木祥

 

『かげふみ』と『たずねびと』二作が収録されている。
ともに広島の物語で、「影」を「さがす」物語である。
辛い物語であるはずなのに、透明な明るさを感じる物語だった。


『かげふみ』は、小学五年生の拓海の夏休みの話。妹が水ぼうそうに罹り、隔離のため、拓海ひとりで広島のおばあちゃんの家に来ている。
おばあちゃんは拓海に、近所の児童館に行ってみたらと勧める。
雨の日だった。
快適な図書室もあるし、晴れれば広い中庭に近所の子どもたちが集まってくる。
本好きな拓海は、図書室で会ったリョウとさっそく意気投合するのだが、それよりも実は、廊下側の薄暗い机で本を読んでいる三つ編みの少女が気になっていた。ちょっと不思議な雰囲気の少女は、その後も雨の日のたびに見かけた。
やがてぽつぽつと話すようになり、彼女の名前と澄ちゃんという愛称を教わる。澄ちゃんは「影の話」を探しているのだという。

 

影の話。
原爆を落とされた八月六日の朝に一瞬で消えてしまった人は、一瞬でわかち難いものと引き裂かれてしまったのだ(影もそうだ)ということを思い知らされる。石段に焼き付いた人の影のように、実体を喪った影は、ここ以外にも、いろいろな形であちこちに遺っているようだ。

 

『たずねびと』の、同じ名前を持つ二人のアヤちゃんは、影と実体(半身と半身)のようだとも思う。半身をさがすことは、生きている人と亡くなった人とが出会うことだ。
「名前でしかない人々、名前でさえない人々、数でしかない人々、数でさえない人々」の居場所を作ろうと考えたわけではないのだろうけれど、「さがす」ことが居場所になっているのではないだろうか。

 

リョウのおばあちゃんの言葉「そっとしといたり(そっとしておいてやりなさい)」も心に残る言葉だ。
拓海と会った広島の子どもたち、元気なガキ大将たちだけれど、原爆被害者や遺族である大人たちのなかで、そっとしておくことを幼い頃から当たり前のように身に着けて大きくなったのかもしれない。この子たちは優しくて本当に賢い。
当たり前のように、自分たちの間に「夢でもいいから会いたい慕わしい人」の場所があることを意識しながら生きていく大人たち、子どもたち。いちいち言葉にする必要さえなくて。
それは、児童館の中庭で遊ぶ大勢の子どもたちの姿に繋がる。
ドッジボールや石けり、かげふみ。一緒に遊んでいるのは、たいていは顔見知りの近所の子たちだけれど、初対面の子が突然現れても屈託なく仲間になってしまう。遊ぶなら人数が多い方が楽しいもの。(いっしょに生きる人が多いほうが楽しいもの)


物語にはたくさんの書名が出てくる。図書館で本を探す拓海を通して、読みたい本をチェックしている。