『鳥の会議』 山下澄人

鳥の会議

鳥の会議


喧嘩ばかりしている・・・ただの「けんか」じゃない。彼ら、まだ中学生なのだ、と気がついて寒々としたりする。
だけど、それだから中学生なのか。エネルギーのはけ口が全部暴力に向かうところが純情なようにも思える。


高校進学? それでもしたほうがいいのか。だれにそんなことを相談できる? 
狭い家(?)の中で、いつも一人で過ごしてきた子は、さみしい、とかそんなふうには思わない。ただ退屈だと思うことはあった。
小走りで走っていく仲間の背中をいつまでも覚えていて、ずっと年をとったとき、何かの拍子に思いだしたりする。でも、当の相手はそういうのは嫌いだ。


親や兄弟はいるようでいないようで、ずっと一人で生きてきた。生きていくために覚えたことはたくさんあった。
普通、学校や家庭では決して教わらないこと、覚えずに済むはずのこと。
そうして、彼らは、今ここにいて、一緒にいる。分かち合えるものをもっている。
そうした、小さな群像と群像との物語。
殺伐としていて、悲惨で、初めから与えられなかったチャンスが、読者としては口惜しくてやりきれなくなったりもする。
でも、そういう風に読んではいけないのだ。だって、描かれている空気はそういうものではない。「〜はそういうのを嫌うやろな」「事実嫌う」と思う。


>・・・木は大きくもなく小さくもない。見ていると、ときどきその木に小さな小鳥が飛び込んだり、飛び出したりする。小さな鳥だ。それらが会議なのかただの雑談なのか、ここにぼくがいるよわたしがいるよと訴えているのか、木の中で鳴く。
この光景はすぐに目に浮かぶ。その木を思いうかべるとき、その木は、ぼうっとした明るい光に包まれているのを感じる。
そこで何が起こって居ようと、確かに光の手の中に包まれた時間がそこにあるのだ、と思う。
不思議だな、と思うけれど、やっぱり光のなかにある。