『コルバトントリ』 山下澄人

 

飛行機の腹から出てくる爆弾がゴマみたいだと、燃える火の反射が七色に見えたと、そう思ったのは誰だったのだろう。
車に轢かれて死んだ猫を埋めたのは、神社で大勢の学生服に殴られ続ける若者を見ていたのは、誰だったのだろう。
駅のホームの向こう側から線路に降りて轢かれたのは、白い杖をつきながら電車に乗ってきたのは、だれだったのだろう。


次々に場面が移り変わる。
いいや、そうじゃない。
あの情景もこの情景も、あの時間(時代)もこの時間も、それどころか生きている人も死んでいる人も、わかち難く、文章のなかに、やわらかく混ざりあっている。
そういうことはどうでもいいのだろう。
どうでもいい、というわけではないかもしれないけれど、まずはこだわらないこと、詮索しない事、そうして、文章の流れに身を任す。
過去から現在、未来へと時間が流れることとか、あの人と私は別の人間であるはずだ、とか、生と死はもちろん同時に起こりえない、とか、そういうことを当たり前だ、と思うのをやめること。
書かれている一文一文をその場で正しく理解しようと思うのをやめること。
感情をなるべく抑えて(「ぼく」みたいに)何を目にしてもただ塀の張り紙を眺めるように文章を読んでいこうと試みる。
読んでいると、ああ、そうだったのか、と驚くことも何度もあったけれど、それらも雑多の流れのなかに混ざりあう。混ぜてしまおう。
そうしていたら、この一文一文の連なりは、ひとりでに物語に変わって、ひしひしと胸に染み入ってくる。


豊かさから取り残された町の片隅。
のんだくれのおじさん、かっとなると見境なく暴力をふるう父、目の見えない少女、いじめる若者と苛められる若者、交通事故の猫、両親の不仲、消えない痣、病院のベッドの上で死にかけている父、そんなものばかりのすきまに、寂しいようなやるせないような、美しいような、なにか澄んだものがあるのを感じている。目を閉じたまま月の光を感じるように。


家の前の椅子でタバコを吸っているおじさんには別の名前もあった(「ぼく」やあの少女がそうであるように)
そして、今は私、「月の見張りや」というその人の傍らで空を見上げて過ごす。そうしているような気がしている。