『小さな町で』 シャルル⁼ルイ・フィイップ

小さな町で (大人の本棚)

小さな町で (大人の本棚)


どこにでもありそうな小さな町に、どこにでもいそうな人たちが住んでいる。ありふれた日常を過ごしている。
「よせばいいのに」と思う方向に、ふと足を向けてしまったり、「あのとき、なんであんなばかなことをしたんだろう」と愚にもつかぬ後悔をする。
二度ととりかえすことのない大切な物を失ったことを悲しんだり、見出したりする。
なんとなく覚えがあるような光景は毎日どこかでひっきりなしに見られるけれど、起こったその瞬間を取り出して仔細に眺めてみれば、それは、どこにもない一回限りの出来事で、日常は、奇跡的な瞬間の積み重ねだったよ、と思う。
そういう短編集。シニカルな描写で、冷めた笑いを誘うものが多い。


『二人の乞食』『火口屋の娘』の乞食たちは、「乞食」という言葉をまじまじと見直したくなるような人たちだ。
『火口屋の娘』の乞食は、「この人の世のなかに隠れ家を求め、気高い感情のままに生きていくことのうちにその隠れ家を見出したかのようだった」というし、
『二人の乞食』の乞食は「ざらにはいないような乞食だった。町の人たちはふたりを助けてうれしかったのだ。いなくなると淋しがった」と。
彼らは物乞いこそすれ、ほんとは乞食じゃない。
出会え、一瞬関わりをもてたことを感謝したくなるような存在。あまりに純粋すぎて、普通には暮らせないのかもしれない。そういう存在は、人を恐れさせたり畏れさせたりするのだろう。


ころころと人は生まれ、ころころと死んでしまう。誕生や死のまわりにはいつだって、いかがわしげな悲喜劇が起こるし、思いがけず、隠しておきたい本音がぽろりとこぼれたりする。
そんななかで心に残るのは『老人の死』
亡くなった妻の亡骸の脇で過ごす老人の茫然自失の姿や無邪気な哀しみが痛々しい。
けれど、その姿そのものが慰めのようなものに思えてくる。それは外に向かって放射しているように感じる。


『お隣同士』の、しょうもない老女たちの友情(?)は、にやりとしながらも、身に覚えがあるなあ、と思う。
昔、苦手だと思っていたあの人この人は、今どうしているかしら。無償に会いたいときがある。お腹を抱えて笑いながら昔話なんかできたらいいな、などと夢みたいなことを考えている。