冬の灯台が語るとき

冬の灯台が語るとき (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

冬の灯台が語るとき (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)


スウェーデンエーランド島を舞台にしたミステリ(四部作になるとのこと)『黄昏に眠る秋』(感想はこちら)に続く二作目です。


一つの死から始まって、残された遺族の悲しみと深い喪失感一杯に、物語は進展します。
亡くなった人はなぜ亡くなったのか、事故なのか自殺なのか、他殺なのか――ミステリなので、当然他殺だろうと、確信して読みます。
だとしたら、なぜ死ななければならなかったのか、どのようにして死なされたのか、犯人は誰なのか、と手掛かりを拾いながら読みます。
この事件を追ううちに、のど元に引っ掛かった小さなトゲのような幾つかの古い謎が浮き彫りになり、
複数の人々の人生が浮き彫りになり、
それらがからみ合って一つの物語になっていきます。


闇と雪と氷に閉じこめられた孤島。
その人里離れた岬の突端の200年の歴史を刻む燈台守の家。
納屋の壁に刻まれたのは、この家の代々の死者たちの名前。その死を悼む誰かによって記された墓碑銘のようなもの。
長い一つの物語に、まるで砂糖をまぶしかけるように、この家の代々の死者たちの物語が順不同に、ぽつぽつと語られる。
陰鬱な物語が。
家の歴史を語るそのいくつもの物語が、この作品のとても大切な要素になっています。
私は、これらの物語がとても好きでした。


それにしても、なんという家なのだろう。この家は、報われない死の連鎖のうえに建っているように見えました。
一人の女性がこの家を見て言った。「この家には住みたくない」
同感だ、と思いました。最初は。
ところが、読み終えたとき、違う感慨に浸っています。


或る人がいう。「あなたは幽霊を信じますか」
この家には、或る気配があります。
それが幽霊なのかもしれない。
この家の代々の、酷い死に方をしなければならなかった死者たちが、幽霊になって、この家にとどまっているのかもしれない。
彼らはしかし、生者に何も訴えない。何も要求しない。
ただ静かにそこにいる。そこに住まう生者たちのそばにいる。
生きた人と、死んだ人とのあいだにある、不思議な共鳴、共感のようなものが、
リザードに閉じこめられた暗い陰鬱な空気の中に、静けさとともに広がっていくのを感じます。


大切なものを失くして、癒しがたい傷を負った人は、どうやって生きていったらいいのだろうか。
亡くしたものが遠くに行ってしまったことを受け入れるのではない。まして、亡くしてしまった者を忘れる必要もない。
亡くしたものは、自分のそばにいる。亡くしたものと寄り添いあう。
残された者の喪失感や悲しみ、苦しみを本当に分かち合えるのは亡くなった人なのだ、と気が付きました。
そうして、この先の道を歩く勇気を得ることもあるのかもしれません。


この家を見たとき、この家に住みたいと思う人も、住みたくないと思う人もきっと、古い家だからこその気配(幽霊かどうかはともかく)を
感じたのではないだろうか。
その気配に対して、忌むべき存在と思う人もいれば、慕わしいような思いを抱く人もいるのだろう。
こういう本を読むと、家そのものが、生きた重要な登場人物の一人のような気がしてきます。
ルーシー・M・ボストンの『グリーン・ノウの子どもたち』を思い出しています。