『愛の旋律』 アガサ・クリスティー

 

クリスティーがメアリ・ウェストマコット名義で発表したこの作品は、ミステリでもスリラーでもない。読み応えのある「文学」でした。


ロンドンに新設されたオペラ劇場のこけら落としのだしものはグローエンという無名の作曲家の新作で、時代の先端を行くものだった。多くの聴衆は困惑したが、名評論家バウアマンは、作曲家を天才と讃えた。
この劇場の所有者で名うてのショーマンでもあるレヴィンは、バウアマンから、作曲家グローエンとは何者か、と問いかけられて言葉を濁す。
バウアマンは重ねて言う。彼は、まちがいなく、将来を嘱望されながら戦死した若き作曲家ヴァーノン・デイアの直系の後継者だと。
そして、ヴァーノン・デイアの物語が始まる。


ヴァーノンは遅咲きで、彼が音楽の道を志したのは大学生になってからだ。
恋をしたのもその頃だ。


「ヴァ―ノンは不世出の天才か、放縦な怠け者のどっちかだ」
「天才は世界一過酷な主人よ。それはあらゆるものを犠牲にせずにはいないわ」
「……目的のほうであの人をしっかりと捉えるのよ……それは是が非でも彼を従えるわ。仕えさせるわ――どんな代価を払わせてもね」
……どの言葉もヴァ―ノンを指している。


ヴァ―ノンは複雑な内面を持ち、非常に魅力的だが、その一面は決して愉快とはいえない。頑固で、自己中心的で、しかも本人にはそのへんの自覚がない。
だけど、彼は才能のある音楽家だ。彼の才能は、彼を振り回して、ひれ伏させる。彼だけではなくて、彼のまわりの人たちまでも振り回して、従わせる。
出会ってしまった四人の若者たち(彼らもまた、なんと多面的に描き出されていることか)は、ヴァ―ノンの才能を愛し、羨み、憎み……近づき合い、遠ざかり、そして自ら食われずにいられないのだろう。
ヴァーノンは、想像力豊かな幼い頃から、追いかけてくる幻の「獣」に怯えていた。
獣は、彼の音楽の天分だったのだろう。
天分とは、なんと恐ろしいものか……
ことに、激しい苦痛を経験し、ずたずたにされ、むさぼり食われてしまっても、当人(ヴァーノン自身も、回りの人々も)はやっぱり、幸福だったのではないかと思うから、なおさら。


ミステリではない物語だけれど……ずっと気になっていたのは最初に出てきたヴァ―ノンの再来と言われるグローエンという作曲家のこと。
グローエンとはいったい何者なのか。ヴァ―ノンとはどういう関係があるのか……
それを知りたいと思いながら読むのも楽しかった。ミステリでなくても。