手紙、栞を添えて

手紙、栞を添えて (ちくま文庫)手紙、栞を添えて
辻邦生水村美苗
ちくま文庫


作家としてではなくて、読書人としての辻邦生さんと水村美苗さんの往復書簡集です。
というのは、正確ではありません。
朝日新聞紙上に連載、という形で書かれた手紙だからです。
だから、二人の間には、読者がいて、相手に宛てた手紙は、遠まわしの読者への手紙になっているのです。
そして、手紙の形をした読書論でもあります。


なんて魅力的な読書論(手紙?)でしょう。
「プロローグ―最後の手紙」として、冒頭に水村美苗さんから辻邦生さん宛ての手紙が載っていますが、
そのなかで、
「こうして辻さんとの連載が終わった今、辻さんは、私にとって、世にも特別なかたとなってしまいました。生きているかぎり、なんとしてもお目にかかりたくない、唯一のかた・・・」
と書きます。
そもそも、連載の初めに、水村さんは、
「辻さんには一面識もないままに書いてみたい。新聞紙面でいただくお手紙から想像されるだけの辻さんに書いてみたい」
と願います。
そして、本文中で、辻さんもそういう考えであったことを読者は知らされます。
ここを読んだだけでわくわくしてしまいました。
もう、この本、絶対好き、とまだ中身も読まないうちにうれしくなってしまった。
それこそ、文通の魅力ではないか。
わたしは、『チャリングクロス街84番地』(感想こちら)を思い出していたのです。
一面識もないまま本を媒介にして20年も続いたニューヨークのへレーンとロンドンのフランク・ドエルとの文通を。
そして、ヨーロッパ各地を転々とする水村さんと日本の浅間山のふもとに住まう辻さんの文通は、新しい『チャリングクロス街』のようでした。


手紙、という形がいいのです。
手紙ってなんでこんなにうれしいのだろう。
二人の人間の会話のあいだに大きな時間があること。
次の話題を楽しみに待つ喜びが、続けて読む読者であっても感じられることでしょうか。


それにしても、なんという本読みたちだろう。
そのレベルの高さに、こちらはついていくのに青息吐息です。
二人の片方が振った話題に、相手は臆せずついてくる、ついてくる、なんてものじゃない、それを深め、広げ、次に繋げる。
どんな作家、どんな作品の、どんな話でもすんなりと入っていき、それぞれの独自の見解に至る。
しかも、文章が素晴らしい、ときている。
話は、吉本英治の『宮元武蔵』やオールコットの『若草物語』から始まったかと思うと、
ドストエフスキーゴーリキートーマス・マンスタンダールにダンテ、リルケボルヘス中勘助太宰治、平安文学まで・・・
脈絡がなさそうに見えながら、まるで文学論しりとりをして遊んでいるようです。
そして、そのしりとり遊びは、後半、終わりに近づくに連れて、どんどんヒートアップしていくようで、凄いすごい、楽しい楽しい。
ああ、自分の教養のなさが情けない。
教養高い人たちのサロンにいる自分をおもいうかべてしまう。
丁々発止とやりあう知的なゲームを眺めながら、あまりにレベルがちがいすぎて、あっけに取られて見守る自分を。
でも、読んでいてこんなに楽しいのは、お二人が心からこの文通(?)を楽しんでいるのが伝わってくるから。
そして、心から本を愛しているのが伝わってくるから。
「読むという行為は純粋な快楽です。それは読むという好意に内在する快楽のほか何一つ見返りを期待しない、無償の行為です」
「文学とは、やはり幸せそのものではないでしょうか」との水村さんの言葉も、
辻さんがグレアム・グリーンの言葉をひいて伝えてくれた
「今日、ぼくたちおとなは、あの十四歳までに味わった興奮や啓示に匹敵するだけのものを、読書から得ているであろうか」という言葉も、
素晴らしい殺し文句じゃありませんか。


本当に楽しかった。
いつまでも続けばいいのに、と思った。
二人の最後の手紙、「いずれどこかで、また」「ありがとうございました」で終わる手紙を読んだときはああ、もう終わりなんだ、と驚いた。
残りのページ数がいつのまにかなくなっていることにちっとも気がつきませんでした。
そして、そして、「ちくま文庫版あとがき」のあと、一番最後に水村さんの「最後の最後の手紙」がいきなり現れたのでした。
びっくりしました。
ここまで読んできて、わたしは(ついていけぬ、ついていけぬ、と言っていたわたしが)
いつのまにか、二人の文通に加わり、一緒に文通しているつもりになっていた。
一切会わず、紙面だけから想像される相手に宛てた手紙をわたしも書き、もらっているつもりになっていました。
それがもう二度とありえないのだ、と知ったのでした。