鹿と少年(上下)

鹿と少年(上) (光文社古典新訳文庫)鹿と少年(下) (光文社古典新訳文庫)鹿と少年(上)
鹿と少年(下)
マージョリー・キナン・ローリングズ
土屋京子 訳
光文社古典新訳文庫


>陥落孔(シンクホール)のむこう、モクレンの木を通り過ぎて、カシの木の下を、少年と仔ジカが並んで駆けていく。永遠に帰らない時のかなたへ。
最後の一行を読み終えたとき、しばらく何もしゃべりたくありませんでした。
美しい文章で語られる『子鹿物語』の全訳です。
だけど、知っているつもりの『子鹿物語』とはまるっきり違っていました。
以下、『子鹿物語』のあらすじはあまりに有名だ、という前提のもとに自分の思ったことを書きたいと思います。


半端なく美しく、半端なく危険な、森の豊穣。
森の美しさを余すことなく伝える文章の美しいこと。
けれども、この森のなかで人が生きることはかくも厳しい。
無言で、人などひとひねりし、まばたきするほどの感情も見せず、ただ美しくある自然。
人も動物も等しく打ち据える嵐。家畜をねらうクマやオオカミ、キツネ。森に潜むパンサーやがらがらへび。
川にはアリゲーターやヌママムシ
何よりもおそろしいのは食べものがなくなることでした。
生きのこれなくなることでした。
森で生きることは、戦いでした。


少年ジョディのまわり。
大人たちは、家族間も、近隣との間も、絶えず緊張感をはらみ、微妙なところでバランスをとっている。
その微妙なバランスを、ジョディは子どもながらに感じています。
相手(大人)の顔色を読まずに暮らせない。
そして、同じ年頃の友だちには、次に会えるのはいつになるかわからない。
彼は、心寄せ合う存在がほしかった。
ジョディのさびしさが痛いほどに感じられる前半。


こういう状況で暮らす少年にとってほっとする存在だった父。
しかし、この父の存在は、ジョディにとって、『森の美しさ』と一緒だったのかもしれない。
森が美しければ美しいほどに、いつもと違う姿を垣間見せられたと感じたとき、裏切られたように感じるのではないだろうか。
ほんとうはどの森も同じ森なのはわかっていても。


・・・少年が、子鹿のフラッグに出会い、手許で育てることを許された時はどんなに幸福だっただろう。


>ジョディは、自分の銃にいつも弾丸を込めておこう、と決めた。フラッグを襲いにくるやつに備えて。


だけど、やがて、その銃をフラッグに向けることになるのでした。
ほかならぬフラッグの止めを刺すために。
なんという皮肉だろう。


少年期の終わりは残酷な形でやってきます。
鹿を失ったあとのジョディが、一番心に残ります。
家を逃げ出し、森をさまよい、苦しむジョディの姿が。
だけど、ジョディは、自分で帰ってきました。
失意のなかで、どこにも逃げ場がないことを自覚し、ここに踏みとどまることを決心するのです。
決心するというより、それしかないことを知る。
このとき、彼は子どもであることをやめます。


なんという残酷な通過儀礼だろう。
すべてを包み込む大自然はやはりどこまでも美しい。
残酷であるが故に美しいのです。
ジョディをとりまく大自然は、彼がこれから分け入っていく人生の象徴のようです・・・


ジョディの苦しい二度目の誕生。
彼の父が息子に言う言葉が印象に残ります。

「・・・確かに人生はいいものだ。すごくいいものだ。だが、楽ではない。人生は人間をぶちのめす。立ちあがると、またぶちのめす。おれは、これまでずっと、楽な人生ではなかった。」
児童書の中の子どもたちは、さまざまな紆余曲折を経て成長します。
成長には様々な側面があることを子どもたちはその過程で学んでいくしかない。
先の言葉に継いで父は言います。
「・・・だがな、淋しいのは、みんな淋しいんだ。なら、どうするか? ぶちのめされたら、どうするか? それが自分の背負うたものだと受けとめて、前に進むしかないんだよ」