フィオナの海

フィオナの海フィオナの海
ロザリー・K・フライ
矢川澄子 訳
集英社
★★★


なんと美しい本。物語の幻想的な雰囲気にぴったりの装丁。
水色の表紙、挟まれたしおり紐も濃い水色。そして、本文の文字が、灰緑色・・・北の海を思わせる色合いです。
はらだ・たけひでの線画も良いです。


ケルト民話のセルキー伝説を取り入れた物語です。
セルキーとは、妖精たちのうちのあざらし族で、ふだんはあざらしの毛皮をまとっているけれど、
もともと人間と仲良しで、時折その毛皮をぬぎすてて直接人間と交わったりしたそうです。
日本の羽衣伝説によく似た物語が伝わっています。(訳者あとがき「薄明のなかの少女」による)


主人公フィオナたちマッコンヴィル家の一族は、その昔セルキーの娘と人間の青年のあいだに生まれた子どもの子孫で、
いつの世代にも、セルキーの血を強くひく子どもが生まれます。フィオナの弟ジェイミーのように。
母を亡くして、一家そろって島を出て本土に引っ越すことになったその日、幼いジェイミーはゆりかごごと海に流されてしまうのです。
その後四年たって、島にもどってきたフィオナは、弟がどこかの海で生きているはずとの信念から、ジェイミーをさがす決心をしています。


ざらしたちによってジェイミーは育てられるのですが、以前読んだカレン・へス「イルカの歌」の、イルカに育てられた少女の描写を思い出します。
ジェイミーは、無垢なまま幸福に育つのです。
ここでは人間至上主義はありません。ただその「者」の幸せだけがあるのです。
このあざらしたちは、(少なくとも族の長は)やはり純粋なあざらしではなくてセルキーの一人なのではないか、と思います。
ざらしはあざらしの姿のままに描かれてはいますが、フィオナより賢そうだし、
何よりも、ジェイミーをあざらしの子ではなく、あくまでも人間の子として養育しているのです。
今は無人になった島の小屋のなかで、テーブルの上の貝殻のお皿を前にして向かいあったジェイミーとあざらし族の長の姿を見ればわかります。
このあざらしは族の長と呼ばれているけれど、あざらしたちだけではなく、マッコンヴィル家の人たちまで含めての一族と考えているのかもしれない。
そう思うと、長い年月を超えて未来までも予見するような奥深い知恵、そしてフィオナたちが一族の幸福だけを願う知恵の恩恵を受けていることに納得できるのです。
そして、大きな信頼のうちに見守られていることに。


晴れ、霧、嵐・・・さまざまに表情を変える空と海。咲き乱れる野生の草花。
群れ飛ぶカモメ達の声。あざらしたちの声。
そして、夜、闇の中に浮かび上がる島の不思議な光。ボートを思いのままに運んでいく不思議な潮。
自然と超自然が手をとりあってみせてくれる幻想的な美しい世界。
この世界が、フィオナたちに手を差し伸べているようです。世界に歓迎され愛されている感じ。


この物語にはフィオナの父は実際には出てきません。
でも、島の自然や古い暮らし方、伝説とともに生きようとするフィオナや祖父母、従兄のローリーたちと、真反対の立場の人として描かれます。
島を捨てて町の生活を望んだ父。夢を見た父。子どものためにも。
彼には彼の正しさがあるはずだけれど・・・

>「・・・お前の父親やその仲間が、古いやり方に満足できなくなって、自分や自分の子どもたちのためにもっとちがうものを求めたんだ」
「でも、なにがほしかったのかしら」
なにがほしかったのかしら、と尋ねるフィオナの言葉の端々から、この島にあるものよりもよいものはない、という思いが伝わってきます。
自分の居場所をしっかりと認識している彼女にとって無邪気な不思議でもあったのでしょう。満ち足りた世界。
実際フィオナたちの生き方はとても好きで、惹かれるのですが、
全然出てこないまま言われっぱなしのおとうさん(笑)にちょっとだけ肩を持ちたくなってしまいました。