『イコ トラベリング1948-』 角野栄子

 

イコ(角野栄子さん自身)の小学生の頃の物語『トンネルの森1945』は、「戦争が終わったよ」で終わる。
そして、この本。
イコは疎開先から東京へ戻ってくる。徐々に復興しつつある東京で、私立の女子校の中学二年生に編入したのが14歳の時。それから24歳までの物語である。
英語の時間に現在進行形という言葉を知り、惹かれ、ずっと前を向いて歩いていきたいと思ったイコである。
やってみたい、いってみたい、という願いを、たとえ、その年齢その時代(まして女性)にはかなり厳しいことだとしても、ますは、言葉にする。おまじないみたいに。言葉にすることが、願いをかなえる最初の一歩になっているみたい。
なぜそれがしたいのか、なぜそこに行きたいのか。イコは、自分はミーハーなのだ、という。ミーハーでいい。興味を持ったことに思い切りがんばって飛びついて、だけどちょっと違うな、と思って、ぐるぐる迷って、後ろ向きになって、でも実はそこで新しい足場や新しい扉をみつけたりしている。思いがけない人脈ができたりしている。
大学卒業後に勤めた紀伊国屋書店編集部でのイコの仕事は雑用だった。ある人が言った「雑にはいろいろとまざってる」「綺麗なとこから綺麗なものはみつからない」という言葉が心に残った。
雑用という言葉、いいな。思えば、沢山のたくさんの雑用のなかから、ある時たった一粒の変わり種を発見して以来それが宝になることだってあるし、思いがけない所への切符になったりもするのだ。


戦争が終わり、一気にすべてが変わってしまったこの国で、現在進行形のイコは、時々立ち止まる。


くたびれきって道にひれ伏している傷痍軍人たちは、戦時中の小学生が、勇ましい「戦地の兵隊さん」に書いた「お国のためにがんばってください」という励ましの手紙を受け取った人かもしれない。
転校生が長い髪と長袖の服にかくしているひどい火傷のあと。
古書店主の泉水さんは、いつもニタニタ笑っているように見えるが、頬の下の引き連れた傷のせいで口をきちんとしめることができないことを後になって知る。
「これは、無事に戦火をくぐり抜けられたイコのような人たちの、身代わりの傷なのだ。」


軍国主義、民主主義、自由主義。どれにも主義って言葉がつく。(中略)主義ってどこか、押しつけがましい感じがする。集団行動の匂いもする。命令されてる感じもする」
それから、歌声喫茶での「みんなの心が不思議な熱気にわしづかみされていく」、みんなといっしょに団結の心良さに酔いながら、イコは「何かが違う、何かが恐い」と感じていること。
などなど、イコの違和感(と、その理由)が、印象に残る。


最後は二年間のブラジル行きを決意して、太平洋の上で終わる。イコ、24歳。
その二年後には、ブラジルを出航して、大西洋の上だ。
いつでも、新しい旅が始まる。
いつでも、まだまだ続く長い長い旅の途上だ。