『富岡日記』 和田英

 

富岡製糸場は1872年(明治5年)、フランスの技術を導入して官営模範工場として、設立された。
和田(横田)英は、女工一期生たちの一人である。
長野県の旧松代藩、十万石真田家に仕える藩士(十四町村の区長)横田数馬の次女である英は、当時十七歳。国策すなわち「天下のおため」にと、旧松代藩家老の娘、河原鶴と同様、率先垂範で、富岡に工女として出ることになる。(同僚には平民や新平民の女性たちも多くいた)


『富岡日記』というタイトルから、女工哀史のような、悲惨な奴隷労働の記録を思っていたのだけれど、全く違っていた。
まるで寄宿学校の女学生たちの日記を読んでいるようではないか。
この日記は、後の英が、病床の母の慰めになるようにと、書いたものだという。だから、辛いことや苦しいことはあまり書かないように気を付けたのかもしれないが。
そもそも、富岡製糸場は、政府肝入りの日本初の官営工場であるからには、フランス仕込みの模範となるのは、設備や技術だけではなく、就業規則などもそうだった。
就業時間は、日が昇って(明るくなって)から、日が沈むまで、と定められていたし、週休一日が、しっかり守られていた。
フランス人医師が常駐する併設の病院もあった。
支配人である尾高敦忠が「厳しいが、公平で、自由も保証する」人であったことも大きかった。
そして、ほんとうに、彼女たちは、女学生でもあったのだ。工女たちは、働きに出てきたと同時に、国策である製糸技術を習い覚え、後に国許の新設工場に、技術を伝える使命を担っていたのだ。


第一部の『富岡日記』には、競い合って技術を高めあった勝気な仲間たちのこと、ライバル視して張り合った山口(旧長州藩)出身の女工たちのこと。病気のため志半ばで国許に帰らなければならなかった友の事。夜中の「はばかり」に連れだっていったことや、花見や盆踊りの賑やかさ華やかななども書かれている。


一方、二部の『富岡後記』では、地元に戻ってからの事が綴られる。
英たちは富岡帰りの技術者として、新設製糸場「六工社」で、後輩たちの指導者、まとめ役となる。不満を抱える工女たち、糸の良しあしの見分けもつかぬ支配人たちの暴走などの間で、奔走する日々が綴られる。
煙たがられ、陰口をきかれ、傷つきながらも、一方で、慕ってくれる年下の工女たちや、いつでも笑顔で帰りを待ちわびる家族に、支えられていたことが語られる。
そして、富岡製糸場の支配人尾高に与えられた書の「繰婦勝兵隊」という言葉に、どんなに励まされていたことか。


明治の時代の少女たちのちょっと変わった青春の記録だった。手に職を持ち、自分の腕一本で周囲の信頼を勝ち得て、意気揚々と働いた、輝かしい日々の記録。