『かげろうのむこうで:翔の四季 夏』 斉藤洋

 

夏休みの朝、「ぼく」こと翔が、ジャーマンシェパードのトラウムと散歩しているのは、飼い主の高宮さんに頼まれたからだ。


翔の友人の涼は、人には見えない人(すでに亡くなっているのに、この世にとどまっている人)があたりまえに見えてしまう。普通の人と区別がつかなくて、つい口に出して言ってしまうことがある。
そんなとき、翔は一言「ぼくには見えない」と言って、それ以上つっこまないことにしている。それは、涼との間が気まずくなることが嫌だからだし、少し怖いからでもある。


翔は五年生。口数は多い方ではないみたい。落ち着いて、よく考える子だ、と思う。心にもやもやしたことがあると、マンションの上の階に上がり、富士山を見る。富士山は、天候によって見えるときと見えないときがある。

「きっとこういうことなんだ。いつもの方向に富士山はあるのだ。あるけど、見えないだけなのだ。ぼくには見えないものが涼には見えてしまうのは、こういうことなのだ」

翔の言葉に、なるほど、と思いつつ、ほんとうはあるのに見えないもの、どんなものがあるだろう、と考えている。
この物語は、そういう「あるけど、見えない」ものについて、書かれている。
あるいは、これはつまりこういうことだよ、と思っていたことが、別の見方をすれば、全く違う意味になることもある、ということについても、書かれている。
といっても、理屈っぽい話ではなくて、あとから振り返って、そういうことだよね、と思っているのだけれど。


物語のなかで、翔といっしょに歩くジャーマンシェパードのトラウムが、ほんとうに愛おしい。
警察犬になる予定だった(でもならなかった)犬で、その賢さには舌を巻くが、賢い、という言葉だけではたりない、犬だからこその賢さや切なさが、この犬のなかにはいっぱい詰まっている。


見えないけれど、ある、とわかっているせいで(でもやっぱり見えないせいで)歯がゆい思いをすることもあるけれど、より深く納得できることもあるんだと思う。より深く心に落ちていくこともあるんだと思う。
短い物語のなかで出会った幾人もの人々や、出来事が、もう懐かしくなっている。みんな、最後にかげろうみたいに揺れて、空気に混じりあう感じ。


「翔の四季 夏」と副題がついているので……これはシリーズになるのかな、と思う。次の物語が楽しみだ。