『光の犬』 松家仁之

9784103328131

 

光の犬

光の犬

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北の町・枝留の添島家三代、およそ百年の物語は、おもに九人(祖父母、父母、三人の叔母、姉弟)の人生を中心に、それぞれが関わりあった人の人生までを含めて語られる。
物語は、行きつ戻りつし、点から点へ飛び、ときどきは群衆の中に紛れて見えにくくなったりもするが、見失うことはない。


一人ひとりの人生を丁寧になぞって描かれているわけではない。
たとえば、彼。あの日からその日まで何をして何を考えて何に躓いたのか……詳しい話がすっぽり抜けていたりする。
またある場面。夕方、黙って犬と散歩に出た彼女は、座り込んで涙を流している。そこに何も説明はなく、ただその場面だけが、脈絡なくいきなり置かれていたりする。
……問題は、いつ、だれが、なぜ、ということではないのだ。
前後の事情は何も分からなくても、(わかりたいことは)何もかもわかったような気がしてしまう。
あるいは、わからないことはわからないままでいいんだ、と納得できる。
物語のなかで、一人の美術教師がこんな風に言っていた。
「……見渡す限り、なにもかもピントがあったら、頭がおかしくなって当然なんだ。人間は適当に間引いたものしか見ない。なんとかやっていけるのは、そのおかげでもある」
この物語はそんなふうに描かれているのかもしれない。


自分によく似たひとかもしれない。
おぼえのある感情かもしれない。
いつかそんな時が来るかもしれない。
だけど、やっぱり違うのかもしれない。
大きな仕事をしたかもしれない、するはずだったのかもしれない。
何もできなかったかもしれない。でも誰かの忘れがたい人だったかもしれない。
言いたいことを呑み込んだり、言わなくてもいいことを吐き出したり。
誰かに利用されたり、逃げ出したり、人のことばかり気にかけたり。
見方によれば愚にもつかないような出来事の繰り返し。見方によれば不思議の塊。


傍らには、歴代の北海道犬が四頭。
犬は、家族の去就を、口を挟むことなく見守り続ける。
冬の陽がたまる沓脱石の側に、老いた体を休ませて何かを待っている。
ときどき、人は、持て余した思いをいっぱいにして、犬のもとにすわる。犬と歩く。なぜる。夢にみる。
犬がいなくてもきっと物語は変わらない。が、読むほどに犬は物語のなかで大きく欠かせない存在になる。
ある人の夢に出てきた三代目の犬。どこに潜ってきたのか、顔中に雑草の種をつけて……今、足元で寝そべっているうちの犬に重なって、胸がいっぱいになってしまう。
犬が私たちの光源なのかもしれないね、と共感をこめて。


北の町で開いた物語は、堅実に、静かに閉じていこうとしている。
その見通しに、清潔ささえ感じる閑さは、寂しさとは違う。
百年の孤独』や『精霊たちの家』のようなマジックリアリズム的要素は全くないはずだけれど、それぞれの生が静かなマジックのようだと思った。
小さなマジックが集まって大きなマジックになり、それもやがて縮んで、綺麗に消えていく。