『小公女』 フランシス・ホジソン・バーネット/高楼方子(訳)

   

小公女 (福音館古典童話シリーズ 41)

小公女 (福音館古典童話シリーズ 41)

 

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私が『小公女』に出会ったのは小学校低学年の頃で、やさしい言葉で書かれた抄訳だった。
それからずいぶん経った今、高楼方子さんによる完訳のこの本で、小さい頃の印象とはずいぶん違う『小公女』に出会って驚いた。『小公女』ならよく知っているつもりでいたのに。


まず、ミンチン先生の寄宿学校だが、「大きくて陰気な建物がびっしりとつながって建つ」一郭の、「その中の一軒だった」と書かれている。
小さい時の私は「学校」という言葉から、いくつもの教室が連なる大きな寄宿学校を思い浮かべていた。
けれど、実際は、むしろ普通の住宅(とはいえ、相当大きなお屋敷だったのだろうけれど)のようだ。
生徒もせいぜい十数人しかいない様子。ベーメルマンスの絵本『げんきなマドレーヌ』の12人の女の子が暮らしていたパリの「おおきなやしき」のような感じだったのかもしれない。


セーラも、子どもの時読んだやさしさの塊のような少女とはずいぶん印象が違う。
セーラは激しい。賢いし、優しいけれども、絵にかいたようなよいこではない。
自分は王女である、という想像が、逆境のセーラを助けたけれど、意地悪い相手には、(王女として)冷ややかに尊大に振舞った。
時には、はっきりと思った通りを言った。
こうしたことが、相手の自分に対する心証を悪くして、自分の首を絞めることになるとしても、嘘をついたり、こびたりへつらったりは、決してしない。
このようなセーラのキャラクターは、(私がセーラに当て嵌めていた)薄っぺらな「良い子」像をはねとばす。ちょっといない独特な個性をもった魅力的な主人公だった。


お父さんを亡くしてからのセーラを助けたのは、豊かな想像力と、お話を作り語る力だった。
そして、それが、彼女の強さの源でもあった。
「私、気がついたの。体が辛いときに心がしなければいけないことは、何かほかのことを考えることなんだって」
想像力は、決してふわふわとした甘いだけのものではないのだとしみじみ思う。


この本を読んでいると、子どもの頃に『小公女』を初めて読んだ時の記憶が次々に蘇ってくる。
名もなき「友だち」によって、魔法がおこり、屋根裏に温かい寝具とたっぷりの食事がもたらされ、燃えたことのない暖炉に火が熾されたとき(でも、友だちの正体を、読者はすでに知っているのだ)どんなにうれしかったことか。それが、秘密であることにどんなにわくわくしたことか。だから、セーラが、自分の部屋に逃げこんできた猿を抱いてお隣を訪れたとき、子どもの私は少し残念な気持ちになった。
もちろん、そうなってほしい。でも、まだもうちょっと……この楽しい魔法を、秘密の友達に温められる喜びを、もうちょっとだけ味わっていたい、そんな気持ちでいたことなどを思い出していた。


丁寧な原田範行さんの『解説――学校、インド、想像力』、高楼方子さんの『訳者あとがき』がとてもよかった。
原田範行さんの解説で、19世紀の、早くから働かなければならなかった子どものこと、とりわけそれが女子であった場合のことについて書かれた件、そこからミンチン先生やアメリアの、寄宿学校を始めるまでのいきさつを想像する件、とてもおもしろかった。
また、高楼方子さんのあとがきのなかで、セーラの性格の二面性の理由について書かれた件も、おもしろかった。
『小公女』をめぐる、読み応えのあるエッセイを二つ読んで満足だった。