『灰色の地平線のかなたに』 ルータ・セペティス

灰色の地平線のかなたに

灰色の地平線のかなたに


第二次世界大戦中の、一九四〇年、リトアニア、ラトヴィア、エストニアバルト三国ソ連に占領されました。その後間もなく、ソ連政府は「反ソビエト的」と考えられる人々の名簿を作り、その人たちを殺すか、刑務所へ送るか、シベリアに追放して重労働に従事させるかしたのです。」(作者あとがきより)


リトアニアが、ソ連に占領されたとき、リナは15歳。絵を描くことが得意で、その才能は周囲からも認められていた。両親と、5歳下の弟とともにリトアニアカウナスで暮らしていた。
ある晩、父が帰ってこなかった。そして、リナは母と弟とともに、家に踏み込んできたソ連の秘密警察NKVDに逮捕される。
リナ達一家は「名簿」に名前が載っていたのだ。


リナたちは家畜用の貨車にぎゅう詰めにされ、父と引き離されたまま、シベリアの強制収容所に送られる。
そこから、極寒の極地へと送られて、一日にたったひと切れのパンとひきかえに苛酷な労働をさせられる。
栄養失調、はびこる病気、つぎつぎに亡くなる人々。
NKVDの看守たちはそれを見ながら、温かいストーブの脇で、この冬何人死ぬか、と楽しそうに賭けるのだ。


物語の始まりの、一家の逮捕の場面で、リナが、バスルームの鏡をちらりと見るところがある。
「その後、十年以上も、わたしが本物の鏡を見ることはなかった」という言葉を読み、十年という途方もない年数にくらくらした。
しかし、読み進むにつれて、あまりに苛酷な(という言葉さえ生易しく聞こえる)日々に震え、「十年以上」というその言葉を何度も確かめにページを戻った。
そう、十年以上。では生き延びるのだ。この日々を持ちこたえるのだ、十年以上。
最初に「途方もない」と絶望的な気持ちになったその数字に、いつのまにか希望を託して読んでいるなんて。


人間らしさなどあっというまにはぎ取られ、家畜以下の扱いに耐える日々のなかにあって、それでも助け合い支えあおうとする人々の輪に、驚き、その温かさに慰められる。
さらに、残酷な敵と思っていた人、身勝手で醜悪な人でなしと思っていたあの人やこの人が、ふと見せた思いがけない横顔に、まさか厳寒のさなかに、ふと温められることになるとは。
このうえない闇のなかだから、そこにともった小さな小さな、ほんのちいさな灯りが、ひときわ美しい。


リナは絵を描く。隠れて、隠して。
自分の見た事、聞いたこと、醜悪なものも不穏なものも見たままに、絵で記録する。
そして、消息の知れない父が、いつか自分の足跡をみつけてくれるように、と行く先々に、自身の絵を残す。


作者あとがきの冒頭を飾るアルベール・カミュの言葉、
「冬のさなか、わたしはついに知った。
 自分の中に無数の夏があることを」
たぶん。
リナを生かしたのは、彼女の中にある「無数の夏」なのだと思う。
無数の夏ってなんだろう。どうしたらそれがあることを知ることができるのだろう。
最後のページ(エピローグの前の)を読みながら、リナの背中を見送りながら、このとき、彼女の中にある夏を、それがあることを彼女自身が知っていることを、わたしも知った。
夢中でこの本を読んで、読んで、どんどん読まずにいられなくて、そのあいだ、ずっと、彼女の夏に、わたしのほうが照らされていたのだと気がついた。