『希望のかたわれ』 メヒティルト・ボルマン

希望のかたわれ

希望のかたわれ


「この本は福島の原発事故をきっかけに生まれました」と『日本語版へのあとがき』で著者は言う。
「悲しくてやりきれないのは、「福島」がなければ、わたしたちはチェルノブイリの大災害を忘れていたかもしれないことです」とも著者はいう。


物語は現在ウクライナとドイツとの間で起こって居る犯罪(人身売買)を中心にしたミステリであり、キエフ警察の警部が行方不明の少女たちを追い、犯人の影を追う。
もうひとつ、物語の重低音のように、ある女性が自身の生い立ちと家族の物語を少しずつ少しずつ丁寧に語っていく。今は手許にいないわが子への手紙として。
ひとつの家庭の物語は、そのまま、足元から掘り起こされたウクライナの数十年間の歴史であり、現在起こって居る事件に影を落とす、というよりも、密にからまる。双方のつなぎ目(?)にもいくつかのミステリが仕込まれていて、最後まで読まなければわからない。染入るようなつなぎ目もあるのだ。


物語は、三つの別箇の場面から始まり、別箇に動きだす。そして、だんだんに重なりながら一つの物語となっていく。
三つの場面の主人公たち(レスマンとターニャ、ヴァレンティナ、レオニード)はみな大切なものを奪われ「希望」を絶たれた人たちだ。
物語にただよう重さ、悲壮感は、そのためだ。
希望。
タイトルは『希望のかたわれ』――かたわれは何を意味するのだろう、と読みながらずっと考えていた。
ヴァレンティナは、何度も「希望」について考える。考えて考えなおす。
>希望はわたしたちの感覚を麻痺させ、最後までがんばり抜かせてしまう毒薬だった
>希望をもたずに生きることは耐えられない
>希望というものは、期限をあらわすことはできない。希望は、わたしたちの前を行くものだから
>・・・希望ははるか遠く空の向こうに去ってしまった
>わたしの最後の希望は過去からやってくる
・・・全部、ヴァレンティナの言葉のなかに現れた「希望」に関する言葉だ。
これらの言葉が吐き出された場面や理由を横目で見ながら、「希望」というものがどんなにあやふやで頼りないものか、考えている。
「希望」という言葉から連想する、大空を仰ぎ見るような明るさ・爽やかさは、ここにはないのだ。希望のかたわれは、実体のない虚しさように感じる。
ヴァレンティナは「しあわせ」という言葉も使う。「しあわせ」という言葉を思い描いた時、セットでその言葉のうえに「ふ・」という文字を付けたす。
そうなら、「希望」もまた「絶望」の仲間なのではないか。もしかしたら希望のかたわれは絶望なのではないか・・・


ヴァレンティナの言葉をもう一つ引用したい。
>こうした出来事はくりかえされる。何度も何度も。同じ出来事がちがう衣をまとって。
この物語は、決して特別なものではないのだ、ということに思い至る。
特別なものではない、というのは、西も東も主義も関係なく、世界中いたるところで起こっている(だろう)こと、あるいは見知った世界であるのに、目を背け気づきたくないと思っていたことを認めることでもある。


しかし――いや、だから、というべきなのだろうか。
この「ふ・しあわせ」で毒にまみれた「希望」のあいだから、地に足のついたまっとうなものが現れるのを感じる。
それを維持することも、それを探すこともこんなにも困難であるということに暗澹とした気持ちになってしまうけれど。それでも。
だれも一顧だにしないようなごくごく普通の人が、ただ昨日今日明日をこつこつと生きていく・・・たとえば、レスマンのような。
たとえば、あれほどのどんぞこ、四面楚歌の中で親友の存在を忘れなかった少女のような。
あるいは、腐り切った組織のなかで、自らの信念と職務に忠実であろうとした警部のような。
巷にひっそりと続く奇跡。


絶望、といいたくなるような、あまりに深い悲しみを前にして、そこから、やっぱり明るいものとして希望が生まれてくるさまを、思い浮かべてはいけないだろうか。
しあわせでもふ・しあわせでもないものを探しながら。