女が嘘をつくとき

女が嘘をつくとき (新潮クレスト・ブックス)

女が嘘をつくとき (新潮クレスト・ブックス)


女たちは嘘をつく。
波乱万丈の半生、
続く悲劇の末にやってくる大ハッピーエンド、
人の心を揺さぶるすばらしい作品の名も知れぬ作者となる夢、
それは嘘というより、自分を人生のヒロインに据えた、すばらしい夢物語。
自分のなかにもあるかもしれない(きっとある)おとぎ話への憧れや、喝采願望だけれど、
話がベタであればあるほどに、自分とは無関係なのだ、と安心して、この途方もない話をひたすらに楽しんでしまう。


聞き手が、嘘話を信じて心動かされているのを、知れば知るほど、
嘘の語り手は、聞き手を通して(自分が作った)嘘話を自ら信じているのだろう。
聞き手を感動させ、感心させればさせるほど、自分の話に自分で酔う。それはきっと至福の時間なのだろう。
だけれど、やっぱり嘘なのだ。醒めたときに残るのは虚しさだろうに。そして、嘘は、相手を傷つける。


明らかに嘘と思うような途方もないホラ話、または、すぐにばれる嘘話なのに、
語ることをやめられないのは、語り手が嘘の世界に逃げ込み、しがみつかずにはいられないほどに、
現実の世界が味気なく苦しいのかもしれない。
絢爛豪華な嘘話に酔えば酔うほどに、語り手の日常の味気なさを思い、胸が痛むのだ。


では、聞き手は?
こんなメロドラマにころり騙されるのは純粋で真面目な人間なのだろうな。
でも、想像力やウィットが乏しいのではないだろうかな、と辛辣な気持ちで想像したりする。
聞き手はジェーニャ。
嘘話と嘘話の語り手に隠れて、影が薄いジェーニャ。
最後の物語に至って、はじめてジェーニャと向かい合ったような気がした。
彼女自身、決して平たんな道のりを歩いてきたわけではない。(平坦だなんてとんでもない!)
だけど、彼女は嘘やおとぎ話に逃げることなど思いもよらなかったのだ。
どんなときも現実のなかで生きていた。
自分の身の丈以上のものを求めなかったその姿は潔く清々しい。けれども、それは逃げ場のない両刃の剣。
これまでの物語のなかで、ちらちらと小出しにされてきた彼女の人生、ほとんど読み流してきた人生がつながり、
彼女のこと、何も知ろうとしなかったことを申し訳なく思う。
この物語は「嘘をつく女」の物語ではなく「嘘を聞く女」の物語だったのだ、と最後に知る。
何がよい、悪い。つよい、よわい。そんなに単純な問題ではない。
希望につながる全うさ、思いがけないところから吹き出す芽に静かに感動する。ひたひたと満たされてくる豊かさに。