メモリー・ウォール

メモリー・ウォール (新潮クレスト・ブックス)

メモリー・ウォール (新潮クレスト・ブックス)


まず、文章が美しくて、今、この文章を読んでいるんだ、味わっているんだ、と思うだけで、どきどきしました。たとえば、

>ワイオミングは太陽から傾いて遠ざかる。さようなら、オシドリ。さようなら、イエミソサザイ。さようなら、ムシクイ。ムシクイは、きのう窓辺の餌台に来て、イモジーンにウィンクすると、また飛んでいった。放置されたタイヤは地面に凍りつく。鳥は過酷な渡りの旅に出る。
・・・なんて、一文が、長い文章のなかにそっと置かれていたりするのです。
でも、美しいのは、もちろん、文章だけではないのです。


儚い、せつない、沁み入るように美しい短編集であった。
どれもどれも味わい深くて、忘れられない(忘れたくない)物語です。
六つの短編(と中編)を結ぶキイワードは、記憶・・・このとらえどころのないもの。


苦しかったりやるせなかったり、悔しかったり・・・もっと激しい感情が残ってもいいはずの思い出ばかりなのに、
そういう気持ちは湧き起ってきません。
この透明で静かで満ち足りた思いはなんだろう。
透明な光になって、未来に混ざりあっていく心地はなんだろう。


>そもそも記憶とはなんなのだろう。どうして記憶は、これほどはかなく、滅びやすいのだろう。
と、一話目『メモリー・ウォール』のなかにあるくだり。
この文章の呼びかけに、六つの物語が、答えているようでもあり、呼びあっているようでもあるのです。
その呼びあいの平衡感覚みたいなものが、静かな波に揺られているようで、とてもよい。
たとえば、
>母はよく、種は始まりや終わりではなく、鎖の輪だと言っていた。だが、それは違う。種は、始まりでもあり、終わりでもある――植物の卵殻であり、棺である。それぞれの内には、目に見えない果樹園がうずくまっている。
『113号村』より。・・・記憶は「目に見えない果樹園」だろうか。
また、
>「チャーチルヒトラールーズベルト。まるで古代エジプトの話みたいだった。大昔のできごとみたいでさ。・・・でも、おばあちゃんは戦争を生きてきたわけでしょ。記憶がある」
『来世』より。記憶は歴史ではないのだ、もちろん、と噛みしめつつ思う。
また、『ネムナス川』。だれもが「いない」という、孤独な怪物チョウザメのための祈りであったりもする。そう、記憶は祈りに似ている。
また、記憶は、時間も空間も超えて、何かと何かを、だれかとだれかを結びつけるよすがでもあるかもしれません。


・・・記憶は歴史ではない。感情・思いでもない。
それ以前のもので、音でも色でも匂いでもなく、言葉や絵になるものでもなく、
形がなく、とらえどころがなくて、とても壊れやすく、失われやすく・・・でも確かに、鮮やかにそこにある。
ある人が死んだら、その人の記憶も死んでしまうのだろう。(事実としての歴史は残っても)
そのように儚いものが、六つの物語の形になって、今私のなかに注ぎ込まれた。
『メモリー・ウォール』の記憶受け取り人ルヴォのように。
それは、美しくて静かで、大切なもの。静かに明るいもの。
これらの「記憶」が事実であるとかないとかは、問題じゃないのです。
わたしたちが心揺り動かされたものは、移ろいやすい出来ごとの、表皮の下の、動くことのない真実なのだ、と思う。
もともと、誰の記憶であったか、ということさえも、どうでもよくなって、ただ、静かに記憶だけが、生きていく。だれかのなかで。
それはもう悲しいことではない。


記憶は、そうか、本に似ている。
モリー・ウォールのカートリッジよりもずっと手間をかけて、すぐれた作家の手によって巻き取られた記憶を、読み手として、確かに受け取る。