ムーミン谷の十一月 (ムーミン童話全集) トーベ・ヤンソン 鈴木徹郎 訳 講談社 ★ |
一人ぼっちが身にしみて、いつものルーティンワークがやれないような気がしたり、
作曲しようと思うのに、夏に思いついた音色が思いだせなくなっていたり、
今までの自分が厭になって、もっと違う何かがあるのではないか、と思ったり、
ただ、やさしいムーミンママが恋しいと思ったり・・・
そうして、てんでんばらばらに暮らしていたムーミンの友人たち(?)が、ふとムーミン谷へ行こうと思いつくのです。
きっと十一月って、何かが恋しくなるような、そういう季節なのかもしれません。
みんながムーミン一家やムーミン谷、ムーミン屋敷のことを思うとき、それはいつも、明るい夏の日の情景なのです。彼らにとって、ムーミンたちはきっと夏の明るさや温かさ、楽しさなどの象徴なのかもしれません。
だから、十一月にムーミン谷にやってきても、ムーミンたちがいないのも当然かもしれません。
季節は夏ではないし、人々の気持ちも夏ではないからでしょう。
(もしかしたら・・・もしかしたら、ほんとはいたのかもしれません。十一月のムーミンをちゃんと見ようと思ったら、会えたのかもしれません。でも、彼らは十一月に、夏のムーミンをさがしていたんです。そういうことのような気がします)
ムーミンのいないムーミン谷に集まった人たちのへんてこりんな共同生活。
フリフィヨンカが、家のなかにたくさん人がいるのに「うちの中には、人っ子ひといりないような気が」したという。
こんなに個性的な人たちが何人も集まってにぎやかなのに、自分がひとりぼっちだと思うなんて、その寂しさの深さに言葉をなくします。
そして、てんでに思いだすムーミンたちといっしょの輝かしい夏の日。
そんなだから余計にムーミンたちの不在がさびしくてしょうがない。満たされない思いが募るのです。
家のなかにムーミン一家のにおいや痕跡をさがし、以前ここで彼らとすごした素晴らしい時を思いだし、彼らをより近く感じようとしているのかもしれない。
だけど、いないものは仕方がないです。いるものだけで、どうにかこうにかしていかないとね。
せっかくここまできたんだものね。
(そう思ったとき、初めて一緒に何かをやる存在として、まわりの人たちに気がつく。ひとりぼっちじゃなくなる)
スナフキンの旅の途上の、秋の末の景色がとても美しいです。
重苦しい雨、死んだような森の木々の描写。でも、そこに、このように文章は続きます。
「でも、足もとの土の上には、むくむくと、あたらしい生命がうまれはじめていました。くちはてたかれ葉の下から頭をもちあげて、夏とは縁もゆかりもない、見なれないすべっこいはだの植物が地面をはってもりあがり、人の知らない、秋の末の、ひみつの庭園ができあがっていました。」
自分から見ようとしなければ、もったいなくも見損なってしまうようなこの季節だけが持つ美しさなのでしょう。
「死んだような風景」と思っていたら、ほんとに死んだようにしか見えないのかもしれない。
新しい庭園になど気がつくことはないでしょう。
そうして、ここに集まったものたちは、身勝手ながらになんとかかんとかやってみようとすれば、案外、今まで気がつかなかったことにぽろりと気がついたりするのかもしれない。
そうなったら、彼らにとって、ムーミンなしで暮らしたこの十一月が、夏とは違う彩りの、かけがえのない物語にきっとなる。
少なくとも読者のわたしにとってはそうです。
忘れられない美しい場面や思わず立ち止まって味わいたくなる蘊蓄(?)が、あちこちにありました。
たとえば。
スナフキンが、いなずまをきれいだと感じるところ。スナフキンの目で稲光を見れば、それはもうほんとに心沸き立つような美しい光景でした。
フリフィヨンカの冬仕度も素敵。
「自分のぬくもりや、自分の考えをまとめて、心のおくふかくほりさげたあなに、たくわえる」ぬくとい、ぬくとい秋の喜びにほっこりします。
忘れっぽいことで不安になるより、いっそスクルッタおじさんみたいに「自分の名まえをわすれることができるのは、とってもすばらしいこと」と言いきってしまうのもいいかも。
スナフキンのホムサへの忠告「なんでも、大きくしすぎちゃ、だめだぜ」は、かなり奥の深い言葉ではないでしょうか。
大きいのはいいとして、大きくしすぎる物って、ネガティブな心から生まれるのかもしれません。
まだまだ、付箋をつけたところがいっぱい。
夏の物語が大好きですが、さびしいはずの北欧の十一月の深みを、落ち着いた美しさを、堪能しました。
それと同時に、夏への消えることのない憧れも。
どちらも大好き。そう思ったころ、ムーミン一家は帰ってくるかもしれないのです。