イニュニック

イニュニック 生命―アラスカの原野を旅する (新潮文庫)イニュニック 生命―アラスカの原野を旅する
星野道夫
新潮文庫
★★★★


イニュニックとは「生命」の意味だそうです。
星野さんがこの本のなかでとらえた生命とはなんだったのでしょうか。


アラスカで出会ったたくさんの人々が出てきました。
何冊か読んだ星野さんの本の中で繰り返し出てきた名前もたくさんありました。
人だけでなく動物たち、植物、土地・・・そしてエピソードなど、ああ、あの本に出てきたな、と振り返ります。
繰り返し、そして少しずつ膨らんだり削られたりした別の言葉として読みます。
この繰り返しは、星野さんにとって、それがつかの間の出会いではなく
―いえ、つかの間の出会いもありますが―ひとりひとりとのかかわりをかけがえなく感じ、
その人との交流を丁寧に重ねて、何度もなぞっていくように感じました。
そうして、それらの小さな重なりが続く悠久の時間に思いを馳せるのです。

>生命とは一体どこから来て、どこへ行ってしまうものなのか。あらゆる生命は目に見えぬ糸でつながりながら、それはひとつの同じ生命体なのだろうか。木も人もそこから生まれでる、その時その時のつかの間の表現物に過ぎないのかもしれない。
「生命」は、この土地に宿るもの。大地こそが生命なのだと感じます。
大きな大地の時間に比べれば、人の一生はあっという間にすぎてしまう一瞬です。
それだからこそ慈しむべき一瞬なのだ、と感じます。
星野さんに向かってたくさんの人たちが旅をしてくる。そしてたくさんの人たちが通り過ぎていく。
その一瞬の出会いを星野さんは慈しむ。


星野さんの文章の透明さ。
あたたかい、という一言では片付けたくない独特のあの静けさ、しんと静まり、でも満ち足りてくる感じ、
それは一瞬を大切にする人だからかもしれません。
・・・意識してそんな文章を書こう、と思っても書けないのではないかしら。
実際、星野さんの文章にどんな特徴があるか、と考えてもわからないのです。普通の文章だと思います。
だけど、普通に書かれた文章からにじみ出てくるものがあるのです。不思議です。
文は人なり、ほんとにそう思います。
きっと意識しなくてもちゃんとその人となりを表している。そんなふうに思います。


印象に残る場面があります。(たくさんある中の特に)
星野さんと友人が川のほとりのすわっていると、クマの親子が近づいてくるのが見えます。
もはや逃げるには手遅れの距離。
じっとすわっていると、何を思ったかクマは、星野さんたちと少し離れた川べりにすわり、しばらくそうしています。
そして、やがて去っていくのですが、
その間、対岸からだれかが見ていたとしたら、二人の人と二匹のクマが並んですわっている図に見えただろう、というのです。
不思議にのどかな(?)光景ですが、人二人には表に出さないけれどものすごい緊張感があったはずです。
だけど、この部分を読んでいるとふっと不思議な感覚に陥るのです。
その緊張感さえも遠く離れて、クマと人間との間にある不分立の協定のようなもの、
決して犯すはずがないある種の信頼のもとのぎりぎりのバランス、
そして不思議な相互理解のようなものを感じ、
なんだか感動してしまうのです。
クマも人も、ともに悠久の時間の中に宿る一瞬の生命という点で、ともに等しい存在なのだ、と感じて。


自然発火から起こる山火事がアラスカの森の多様性を作り出していること。
もし山火事がなければ、あっというまにトウヒという単一の植物の森になってしまう。
山火事のあとの植生により多様な植物がしげり、ムースなどに適した森になるのだそうです。
自然ってすごい。
自分を燃やして生まれ変わる森の姿を思い浮かべて、それこそ膨大な年月をかけた再生にことばもありません。


アラスカの原住民に対するアメリカの同化政策により文化の核である言語が失われつつあること。
言語が文化の核であること、文化喪失は自信の喪失でもあること、すでに自分たちの言葉を知らない子どもたち・・・
取り返しのつかない犯罪のように思いました。


星野さんはアラスカにあこがれ、この地にやってきて、とどまりました。
この本では、とうとう土地を買い、家を作ります。とどまる旅人から、根をおろした住人になったのです。
そして、そこから星野さんは新たな旅を始めます。


たくさんの忘れたくない言葉たち。だけど、そういいながら、わたしはきっと忘れてしまう。
でもこの本を読みながら感じた、心がしんとしずまり、ゆっくりと豊かに満たされてくる感じは忘れません。
そして、再読するたびに、星野さんの言葉に静かに耳を傾け、何度でも考えてみるのです。
夕暮れ、遠いアラスカの原野の焚き火、空に舞う火の粉を見ているような思いで。