めぐりめぐる月

めぐりめぐる月 (ユースセレクション)めぐりめぐる月
シャロン・クリーチ
もきかずこ 訳
★★★★★


サラマンカのお母さんは「チューリップが咲く頃には帰ってくる」と言い置いて家を出て、そのまま戻りませんでした。
お母さんを待つことは空中で魚を捕まえるようなものだ、とお父さんは言う。
そんな頃、おじいいちゃんとおばあちゃんに、アメリカ大陸横断のドライブに誘われます。
サラマンカの住むアイオワ州ユークリッドから、おかあさんがいるはずのアイダホ州ルーイーストンまでおよそ3000キロ。
お母さんの誕生日の二週間前でした。
サラマンカは、お誕生日までにルーイーストンまでに行くことができればお母さんがまた戻ってきてくれるのではないか、
と思いながら、旅立ちます。


長いドライブのつれづれに、サラマンカは、おじいちゃんとおばあちゃんに、友達のフィービーに起こった事件について語ります。
フィービーに起こったことをまとめ、考え、話しながら、
フィービーの気持ちから自分の身に置き換え、フィービーの家族の気持ちを考え、自分自身のことを考え・・・
語ることによって、凝り固まっていた自分の気持ちを解きほぐし、整理し、
いつのまにか新しい視界が広がっているのに気がついていきます。
サラマンカの話を促すおじいちゃんとおばあちゃんがとびきりすてきなのです。
朗らかで、無邪気に見えて、しかも一見どこか抜けているように見えるのですが、素晴らしく豊かで大きな愛情に満ちた人たちです。
サラマンカの話の合間に入る二人の掛け合いが素敵です。二人の歩んできた人生が仄見えるのです。
ささやかではあるけれど、生きること・愛することはこんなにもドラマチックなことなのだ、
決して平凡な人生なんてないんじゃないか、と思います。


「人をとやかくいえるのは、その人のモカシンをはいてふたつの月が過ぎたあと」
インディアンの言葉だそうです。
「人っていうのは、軽々しく判断しちゃならない。モカシン――靴をはくっていうのは、その人の立場に立つってことで、そうしてはじめてわかるものなんだって」
サラマンカセネカ・インディアンの末裔です。
彼女は、フィービーのモカシンを履き、お母さんのモカシンを履き、3000キロの旅をしたのでした。
そうして、一足ごとに彼女をめぐる人たちの姿が、どんどん変わっていくようでした。
リアリティが増し、手をとりあいたい友人のように感じられてくるのでした。
どの人たちもそれぞれに個性的で魅力的で、自分自身の物語を持ち、
その上で、サラマンカモカシンを履き、愛情深くサラマンカを見つめています。
(だけど、やっぱり一番印象的なのはともに旅したおじいちゃんとおばあちゃんでしょう。)
その愛情が押し付けがましいものではないのは言うまでもなし。
そして、待つことのできるとても静かな愛情なのに、こんなに多種多様な愛の形があること、
そのすべてが、この少女にあふれんばかりにふりそそいでいることに深く感動しないではいられませんでした。
この本のどの人たちに対しても、「大好き」と抱きしめたくなってしまう。


ああ、ちょっと感情がうわずっているかもしれません。
わたしは泣きました。
ずっと泣くのを我慢しながら読んでいたのですが、最後まできて・・・
ああ、もうどうとでもなれ、と涙があふれてくるのに任せてしまいました。
泣ける本か、と言えば、そういう本、と言えるでしょうが、そうは言いたくない。(わかります?)
大陸横断3000キロ、道々の大きな風景、インディアンの物語、道連れは飛び切りおおらかで愛情深い祖父母・・・
なんとも雄大で、まるで、空を行く鷹のように悠々としたおおらかな物語なのですから。
アクティブでからっとしていて、静かに涙を流すよりは、わっと一思いに泣いてしまったほうがいいのです。そしてからりと晴れ渡ってしまうほうがいいのです。
でも、からっとしたあとにいつまでも続くぬくもり。一段成長したぬくもりに出会います。


さまざまな点で意外な展開でした。たくさんの忘れられない人々、たくさんの忘れられない場面を残して物語は終わります。
深くゆるぎない愛が残ります。この先、自分の履物だけはしっかり覚えていながらも、さまざまなモカシンを履くことでしょう。
きっと、今までよりも少しだけ上手に履けるかもね。
そういえば、わたしもまた、この物語を読んでいる間中、サラマンカモカシンを履いていたのですね。


原題Walk Two Moons。それを「めぐりめぐる月」とは、すばらしい邦題だと思いました。