『私はゼブラ』 アザリーン・ヴァンデアフリート・オルーミ

 

 

彼女は旅を続ける。
五歳のときに、父と母とともに、サダム・フセイン治下のイランを脱出したことが始まりで、その旅の途上でまず母を喪い、各地点々としたあとで辿り着いたニューヨークで父を喪う。今度は、ひとり、自分の歩んできた亡命の道すじを逆にたどるつもりの大旅行をしようとしている。
彼女の名前はゼブラ。本当は別の名前があるが、ある日、天啓のように「ゼブラ」という言葉が浮かび上がり、それ以来、ゼブラと名乗る。


彼女は「亡命者のピラミッド」を思い浮かべる。大勢の移民たちのピラミッドのちょうど真ん中あたり、望まない移動を強いられた人として彼女はいて、彼女の足の下には旅の途上で命を落とした沢山の難民たちがいる。


彼女は自分のことをホイットニー一族の末裔、という。自分のことや自分に近しい人のことを、その後ろに連なっている一族の先端として捉えたがることは、もしかしたら、故郷からも血族からも離されてしまった亡命者であるからだろうか。
ホイットニー一族のモットーは「文学以外の何者も愛してはならない」ということで、幼いころから父に独自の教育を受けた。
その後、文学を独学で学び、暗記し、深く読みこんでいく。そして、彼女がたどりついたのは、「死は無である。そして無は文学の本質である」ということだった。
無、死。
文学、というが、それ以前に、彼女のなかには「死」が深く住み着いていたのではなかったか。亡くなった父も母も、それから、この物語に現れない亡くなった同胞たちも、彼女の中に住み着いている。というより、彼女自身が、「死」を手放せず、飼いならしているようだ。そうした死人たちに供する食物が文学、のように思える。


旅する彼女は荷物が少ない。ほとんどからっぽだ。
だけど、それは見せかけではないか。
彼女は内側に、抱えきれないほどの見えない重たい荷物を詰めこんでいるではないか。「死」を。


常に「死」に目を向けている彼女と、普通に「生きようとして」暮らす周囲の人々との、物の見方、感じ方の噛み合わなさがおかしい。
彼女は意気揚々と文学を語るが、それは死の言葉なのだ。(「生」への侮蔑でもある)
相手の気持ちには無頓着に、(乗り物に乗り合わせた人や食品店の店主にも)挑むように、自分の考えを披露しようとする(相手を教育しようとする)彼女の姿は、風車に突進するドンキホーテのようで滑稽だ。彼女と関わりを持った人は、困惑するしかないし、彼女自身も傷つく。


彼女の旅の目的地は、見えない荷物を安心しておろせる場所だろうか。(そうあってほしい)
その場所は彼女の到着を待っていてほしい。