『春や春』 森谷明子

 

春や春

春や春

  • 作者:森谷 明子
  • 発売日: 2015/05/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

俳句好きな須崎茜を中心にして、藤ヶ丘女子高校に、六人のメンバーで俳句同好会が発足する。それは春のことで、目指すのは夏の俳句甲子園

 

俳句は芸術とは呼べない、文学として価値が低いものだ、という意見がある。
また、俳句甲子園という大会に対しても疑問がある。俳句は勝ち負けを決めるような文芸ではない。
これらの「そもそも」は、物語のなかで、幾人かの人たちの言葉になって、何度も繰り返し出てくる。
だから、これはもう、織り込み済みなのだ。聡明な彼女たちは、そんなことはよくよくわかっている。
それでも、やはり俳句、そして、あえて勝ち負けを決する大会を目指す。
それはいったい何故なのか。
読んでいる間、気になっていたことだけれど、それが、だんだんに見えてくる。そうか、そうだ、そういうことなのだ、と。
たくさんあるが、登場人物の言葉を借りるなら、たとえば「言葉をとことん吟味する濃密な時間」という言葉だろうか。
ゆっくり読み、味わっている間に、視界が開けるように見えてくる景色がある。景色を眺める歓びを味わっている。

 

たくさんの有名な俳人たちの句や、高校生たちの句(ということになっている)も出てくるが、素人のわたしなどには、正直優劣なんてわからない。
初心者の俳句作りのコツみたいなものも、なんとなく教わったような気がして、「それなら私でも作れるじゃない」と単純に思うが、そのとたんに鼻先をぴしっとやられる感じだ。
俳句甲子園に挑む高校生たちの、言葉への鋭さ、真剣さに、どきっとする。
たとえば、ある人がいう。「広がる空を見上げるな」。「読み手は「空」の一字だけで広がっている空を思い浮かべるし、作者はその空を見上げているのだと認識する」からだそうだ。
十七音のなかにどの言葉をいれるか、ではなく、むしろ潔いまでに捨てていく感じだ。

 

味わう事、評することの意味も考えさせられる。
俳句を味わい評する姿勢は、別のものにも通じている、と思う。まずは「批評は否定ではないのだ」という言葉を肝に銘じたい。

 

と、言葉の話ばかりになってしまったけれど、これは、高校生たちの出会いの物語であり、成長の物語でもある。
俳句十七文字から見える鮮やかな「景」のように、物語の短い一章一章の向こうに、登場人物たちそれぞれの物語が見える。
たとえば、須崎茜が俳句甲子園を目指そうとしたきっかけに、再会したい人の存在があった。会おうと思うなら、もっと簡単に会うこともできる相手なのだが、あえて、そうはしない。その回り道に込められている彼女の、これは確かにひとつの「景」なのだ。
個性豊かな六人のメンバー(+三人)それぞれの「景」がおもしろい。