『ある一生』ローベルト・ゼーターラー/浅井晶子(訳)

 

ある一生 (新潮クレスト・ブックス)

ある一生 (新潮クレスト・ブックス)

 

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山に生きた男、アンドレアス・エッガーの一生。
「エッガーは逞しかった。だが緩慢だった。ゆっくり考え、ゆっくり話し、ゆっくり歩いた。けれど、どの考えも、どの言葉も、どの一歩も、その跡をしっかりと残した。それも、その種の跡が残るべきだとエッガー自身が考える場所に。」


どの一文も、どの段落も、どの章も、読むのは楽しかった。満ち足りた読書だった。


彼には、姑息なこと、狡いこと、策略も、ない。
そもそも自分を飾ろうとか、良く見せようなどという欲もない。
ひとりの女を一途に愛し、愛された。
ただ一歩一歩。
幼い時に、冷酷な養父の折檻が原因で曲がってしまった足で、休むことなく自分の歩調で、最後の瞬間まで歩き続ける人の足音が聞こえてくるようだ。
先日読んだ絵本『ヒキガエルがいく』の、ただひたすらに進むヒキガエルの姿が目に浮かんできた。
それは静かで清々しい。


世の中は移り変わっていく。
戦争があった。従軍し、捕虜としての八年があって、生き延びた。
平和が戻り、勤め先は倒産する。あるときには重宝がられた人はもう適切な人材ではなくなる。
車が走り、テレビが普及し、静かな山里は町になる。
子どもは大人になり、老いていく。
見知った顔は忘れられていく。
それでも、かわることのない歩幅で、歩調で、多くを望むこともなく、歩きつづける。歩ける限り。
特筆するような何かがあったわけではない。
(特筆するような何かを望んだわけでも数えたわけでも無かった)
(いやいや、もしかしたら、それこそ、特筆すべきことなのかもしれない。)
きっと間もなく誰からも忘れられる、それでいいのだ。

 

『訳者あとがき』によれば、「著者ゼーターラーは、アンドレアス・エッガーという男の人生を『木を彫るように』創り出した」そうだ。
木を彫るという言葉が、この人の姿にはなんと相応しいだろう。
彫り出された人の、その木の手触りを確かめるように読んでいた。