『水曜日の凱歌』 乃南アサ

 

水曜日の凱歌 (新潮文庫)

水曜日の凱歌 (新潮文庫)

 

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戦争が終わってすぐ、焼け野原の東京に、進駐軍のための性サービスを目的とした公的慰安所が開設された。
鈴子(14歳)のお母さまはいう。
「明日にはアメリカの占領軍が上陸してくるそうよ。そのアメリカ兵たちに、日本中の女たちが襲われたり乱暴されたりするのを防ぐためには、どうしても、自分たちの身を挺して、防波堤となってくれる女の人たちが必要なの。」
鈴子のお母さまは、亡くなったお父さまの親友の愛人となり、その口利きで、もともとの英語の能力を買われて、この施設で、女性たちとアメリカ兵の間にたって日本語と英語の仲立ちをするために雇われたのだ。
そこには、戦争で住む家も何もかもなくし、ただ家族を養うために仕方なく応募した、普通の家庭の娘たちが大勢いた。
人身御供にされた女たちの壮絶な戦後だった。


鈴子が生まれ育ったのは、親をお父さま、お母さまと呼ぶような家庭だった。
優しいお父さまと控え目なお母さま、兄弟たちとともに賑やかに暮らしていた鈴子だったが、戦争は、家族をあっというまに奪い去り、お母さまと鈴子だけが残されたのだ。
結婚まで身持ちを固くしていることが女の努めであると教えられて育った鈴子だった。
戦後、二人の生活のためでもある、とはいえ、お父さまの親友の愛人となり、こういう施設で働くことを決めた母を鈴子は理解できない。
母は、権力のある男性の力にすがり、利用して、(もともと持っていたが家庭のなかでは不用とされていた)自分の才覚をフルに発揮して、日ごとにいきいきとしてくる。
その姿に、とまどいもするし、不快にも思う鈴子の「なぜ」に、母は答える。
「もう懲り懲りなの」


懲り懲り・・・
思い出すのは、ときどき鈴子の胸にわいてくる「ずるい」という気持ち。
何に対して「ずるい」と思っているのか。鈴子には、容易に言葉にできないのだ。
これは、お母さまの「懲り懲り」と、きっと同じだ。
それは、自分がいつでも襲われて好きなようにされかねない女(弱者)でいさせられること。
戦争ちゅうも戦後も(あるところには充分にあったのに)力ないものは、ただ奪われ(命までも)、利用され、地に這いつくばるしかないこと。
力あるものは、ほんとうは弱者の惨めさを決してわからないだろうこと。
戦争って、国と国(たとえば日本とアメリカ)との戦いではなかったのかもしれない、とふと思う。権力のあるものが、弱い者を騙しながら貪り食うことであったのかもしれない。
だから、爆弾で人が死ぬことがなくなっても、人々はこんなに惨めだ。


パンパンになる人。
婦人団体を作る人。
掘立小屋で焚火をしている人。
揺れる船で寝起きをしている人。
進駐軍の将校とつきあう人。
腕のなくなった人。
白人に乱暴される人。
ちいさな立ち飲み屋で働く人。
みんなみんな出てきた。みんなみんなわずか一年たらずの間に、鈴子が出会った女たちだ。
懲り懲りだし、ずるいし、でも、人々は、自分の足場を懸命にさがして生きていこうとしている。その姿は、したたかで、逞しい。
底辺をさ迷う女たちに物語は寄り添う。いやいや、寄り添うのではない。このままではすまないぞ、みてろ、と、同志として、声をあげる。啖呵を切る。