『フクロウの家』トニー・エンジェル/伊達淳(訳)

 

フクロウの家

フクロウの家

 

 

フクロウ、フクロウ、フクロウ。
一口にフクロウといっても、沢山の種類のフクロウが――世界じゅうに217種も存在するそうだ。
身体の大きさが一番小さいサボテンフクロウは、人間の平均的な親指くらいの大きさで、体重は5グラム程度だというのに、シマフクロウときたら、4.5キロもあり、ハクトウワシより重い。
住む場所もちがえば、暮らしかたも、食べものもちがう。
それでも、みんなフクロウで、同じ猛禽類の鷹や鷲と類縁関係はないのだ。
そのフクロウの体の構造や、それぞれの種のフクロウたちの暮らし方、歴史、人間とのかかわり方など、さらに、絶滅の危機の話など、ひとつひとつ丁寧に解き明かして見せてくれる。
(表紙のフクロウの絵、左右の瞳孔の大きさが違うのも、フクロウならではの理由がある)


作家、画家、彫刻家として活躍するかたわら、環境保全活動にも熱心に取り組んできた著者であるが、フクロウとの関わりは長い。
著者が(子どものときから、おとなになってまで、様々な場所で様々な方法で)かかわったフクロウたちとの思い出を語るくだりは、とくに印象に残り、それがあるから、この本は、特別のフクロウ本と思う。
フクロウに心許された人の、静かな友情の証、とも思える。


第一章「フクロウの家」は、まるまる著者のお隣さんとしてのフクロウ一家の物語で、この章が私は一番好きだ。
著者の暮らすワシントン州シアトル北部の森で、ある嵐の日に倒れた木に、ニシアメリオオコノハズクの巣をみつけたのをきっかけに、著者は、自宅の近くに巣箱をかける。
気長に待つこと数か月、果たしてニシアメリオオコノハズクは現れる。
家族総出で、見守り、観察する様子を追いかけていると、著者は鳥を観察する人間、というよりも、ちょっとおせっかいなお隣さん、という感じだ。
どんな家庭にもその家庭なりの物語があるように、フクロウの家庭にも物語があるのだ、とつくづく感じる。


著者は子ども時代、毎日、ズズカケの木の同じ枝にとまったニシアメリオオコノハズクに会うのを楽しみにしていたが、フクロウの方でも著者に会うことを楽しみにしているのがわかっていた、という話も、
もうちょっと大きくなったころ、メンフクロウのヒナをこっそり巣から連れ出して(今はもちろん禁止されているが)手許で育てたことなど、その小さなエピソードのひとつひとつにわくわくした。
そもそも、自宅にいて、夜、外からフクロウの声が聞こえてくる、という生活は、それだけで、ため息が出るくらい贅沢で、うらやましい話だ。


著者によるふんだんな挿画が素晴らしい。
とても細密に描かれた写実的な絵であるが、これ、写実的といっていいのだろうか。
不思議な絵なのだ。
遠景も近景も、おなじ細密さで描かれているせいで、(陰影があるにもかかわらず)あまり奥行きを感じさせない。(たとえば、フクロウも、フクロウが止まる木の枝も、同じ強さ、繊細さで描かれている)
その独特な描法のせいで、絵は、少しだけ現実離れした不思議な雰囲気を醸し出している。
この不思議を味わうことは、人間がフクロウの世界に入っていくための切符をもらったようなものかもしれない、と思う。