『アフリカの民話集 しあわせのなる木』 島岡文子(文)

アフリカの民話集 しあわせのなる木

アフリカの民話集 しあわせのなる木


著者は、タンザニア連合共和国ザンジバルに住み、スワヒリ語がわかるようになったころ、ここにはまだ語り文化が残っていることを知ったそうだ。
民話が昔から好きで、学生時代には専門的に研究してきた著者である。
機会を見つけては、現地のお年寄りや漁師さんにお話を聞かせてもらうようになる。
それらの民話をまとめたのがこの本である。
元気な色が踊るような、独特で楽しい挿絵は、八人のアーティストによって描かれたティンガティンガ・アートと呼ばれるものだそうです。


著者の解説にも詳しく書かれているが、確かに日本の民話と語り方が似ているなあ、と思う部分が、これらの民話にもある。
たとえば、タンザニアのおはなしは「パウカー(お話はじめるよ)」「パカワー(はーい)」という掛け声がかけられ、それから「ハポ ザマニザカレ(むかしむかし)」と始まること。
日本では、「ひとつ昔かたるべか」のような前置きから「むかしむかし」「とんとむかし」と始まることを思い出させる。
始まりの言葉があれば、語りおさめの言葉もある。
タンザニアのおはなしにも、日本の「とっぴんぱらりのぷう」「どっとはらい」に当たる言葉がある。「今日のおはなしはこれでおしまい。ほしけりゃもってきな、いらなきゃ海にすてとくれ」と結ぶ。お話の最後にこの言葉が出てくると、はっとする。名残惜しいが(海にすてるなんてとんでもない)ああ、もうおしまいだ、と我に返る。


言葉って不思議だと思う。
語り始めの前置きは、日常から非日常に瞬間移動するための儀式みたいなものか、と思う。決まった形のその言葉が、一瞬で語る人も聞く人も、別の空間に飛ばす。
そして、おしまいには、やはりお決まりの言葉によって、お話の世界からこの世に、あっというまに戻されるのだ。
その儀式めいた様式が遠い国と私達の国とでよく似ていると思うとき、「おはなし」を語る・聞く、ということで、両者が繋がっているように感じる。それは、驚きであり(同時に、「おはなし」ならそれが当然なのかと思ったり)、そして何よりも喜びだ。


たくさんの動物たちや、バオバブなど独特の植物が現れるお話は、おおらかなものが多い。
ことに、山がググっと動いて割れた話とか、ルウェンダリ山の火(人格をもっている)が山を下りる話など、スケールの大きさに魅了される。
森には恐ろしい妖怪シャターニがいるのだけれど、怖ろしいと同時に、ちょっと剽軽で、呑気な感じがある。『歌うシャターニ』は、挿し絵も楽しいし、このお話を解説する著者の言葉も楽しい。


「こうした口承伝承も、時代の波にのまれ、廃れつつあるのも事実です」と著者は書いている。
たとえ、紙に書かれた文字を読んでいるにしても、これらは、もともと語られた言葉を文字に起こしているのだ、と思いながら読むと、文字の間から、言葉の躍動(の片鱗)が微かに伝わってくるようだ。
その土地の言葉で語られるおはなしを耳から聞くとき、「読む」こととは別の、言葉の不思議に触っているのだと思う。
おはなし、聞きたいな。