第Ⅰ章。「一九六七年の春、私は彼と初めて握手した」と語り始める「私」とは、アダム・ウォーカーだ。
老いたアダムが一人称で書いた、学生時代の回想録である。不可解な男ルドルフ・ボルンとの出会いと、悪夢のような事件についての。
アダム・ウォーカーがこの小説の語り手にして主人公、と思って読んでいた。
ところが、第Ⅱ章は、いきなり「僕」こと小説家のジムが語り手に変わる。今まで読んでいた第Ⅰ章は、物語のなかの入れ子だった。
ジムは、学生時代の友人アダムによって書かれた回想録(私小説?)の第Ⅰ章『春』を郵便で受け取ったのだ。
病を得て、死が間近に迫ったアダムは、ジムに自分の小説を読んでほしいといってきた。
アダムは、ジムのアドバイスをヒントに、Ⅱ章『夏』を書きあげ、ジムに送る。一人称で書かれた入れ子物語の第Ⅰ章は、第Ⅱ章では二人称に変わり、主語は「君」になる。
第Ⅲ章を書き上げる前に、アダムは亡くなる。ジムのところに未完のメモのような第Ⅲ章『秋』が残される。人称は今度は三人称に変わる。
アダムの物語は、章ごとに語り手の視点が変わることで、読み手のほうも、物語との距離感が変化する。古いエレベーターに乗っているようでくらくらする。
そのうえ、作品の外にも、その先にも物語があり、内と外とが、微妙に溶け合っている。読み進めることで、入れ子の物語の印象がどんどん変わってくる。奇妙な物語はますます奇妙になり、おもしろい。
完成させずにアダムが亡くなってしまったことで、作品が、命を得て呼吸し出したようにも思える。
これは、真実を語った回想録なのか、事実を模した作り事なのか。
アダムに友情をもとめて近づいてくるボルンという男の得体の知れなさ、不気味さ。彼はいったい何者なのか。狂気のようなものをまとって寄せたり返したりしながら、なぜこうも翻弄するのか。
アダムの弟の死、姉への深い愛情などが、彼の中に大きな、近寄りがたい一部屋を作っているようで、目に見える危険よりも、根深い何かがありそうな気がする。
「不可視」のところが気になる。
不可視――インヴィジブルとは「不可視の」という意味だそうだ。
物語のなかには「不可視」という言葉が繰り返し出てくる。
たとえば、「仰向けに並んで横たわり、不可視の天井を見上げ……」
たとえば、「(ジェット機の機上で)足下に広がる闇のなかで、不可視のアメリカが静かに横たわっていた」
不可視とはなんだろう。目に見えないが、そしてそれが何なのかわからないが、確かにそこにあるもの。
もしかしたら、実際は見えているのかもしれない。見えているけれど、見る事をわざと避けるようなもの。
不可視、という言葉が出てくるたびに、その言葉の影に隠れた何か別のものの影をさがしたくなる。
物語のなかに、読者を不可視にするような、いくつものヒントが、混ぜ込まれ、隠されているような気がする。
唐突な感じのするいくつかの事件の連なりや、ぜひワケを聞きたいあれこれの行動、そして、符丁……
不可視という言葉で遮断された場所に置かれ、この場所はとっても孤独な所だ、という感じと、いいや、そんなことはない、という感じを同時に味わっている。この場所の本当の姿は不可視だけれど、思いもかけないものが、見えないだけでそこに当たり前にある。それは、最後に、あの人が山を下りてきた時に聞いた音、見た光景のようなものかもしれないのだけれど。
不可視……見えていないものは、実は(できれば見たくない)自分自身なのかもしれない。